才能を殺さない教育 第三章 子供の発達に合わせた学校教育(3)

ではどういう数学教育が良いのか?

私の娘が高校で「数学は勉強しなくてもわかる」というレベルに達したのには、3つの理由があると私は信じている。
ひとつは、幼いときに高速計算練習をしなかったことである。もうひとつは、そういう同級生(と彼らの母親たち)に馬鹿にされて「私は数学ができない」と悲観している彼女に、「早く計算できることと数学ができることは同じではない。後にそれを証明してみせるから、お母さんを信じなさい」と自信を持って約束し続けたこと。そして最後に、中学校で理想的な数学教師を獲得したことである。

娘が通った中学校では、子供の学習スタイルに会った教育チームを希望することができる。私が唯一希望したのは、ロシア出身の数学教師タチアナ・フィンケルスタインである。
変人として有名な彼女は保護者への説明会で一方的にこう語る。
「いつも尋ねられることですが、私は教科書は使いません。なぜかというと、教科書はBadだからです。私は使いませんが教科書は渡します。見たい人は勝手に見てもらってけっこうです。役には立たないと思いますけれどね。いろんなことを子どもに詰め込んで、そのときだけできても意味はありません。子どもたちはよく、『あ、それ知ってる、知ってる』と言います。すると私は、『じゃ、説明して』と要求します。そうしたら子どもたちは、『見たことはあるけれど、忘れた』と言います。一回習っても、それは『聞いたことがある』とか『見たことがある』程度なんです。知ってることにはならない」
彼女は「教科書を使わない」という発言に表情を曇らせる親を見てもひるまない。
「教科書がないのにちゃんとカリキュラムを終えられるのかどうか心配する親がいますけれど、大丈夫です。教科書なんかなくても、生徒はちゃんと必要なことは全部学びます」

授業もそんな感じである。
「もし猫を見たら、あなたたちは猫だとわかるかね?」
いきなりそんなことをたずねる。
生徒たちは、裏がありそうだと思いつつもいっせいに答える。
「もちろんわかるよ」、「見たらわかるに決まってんじゃない」
思惑通りの答えにフィンケルスタインはにやりと笑う。
「でも、なぜ猫だとわかる?」
犬にも尖った耳や長いしっぽがあるものもあるし、ネズミにもヒゲがある。猫とはどういう動物のことを言うのか。目の前の動物がそうだと断定するためには、どんな証拠が必要なのか。
しんとした生徒たちを見渡して、フィンケルスタインはロシア語なまりの強い英語で諭す。
「他人が『あれは猫だ』と言っても、そのまま信じちゃいかんよ」
こうして「定義と証明」について学んだ生徒がそれを忘れそうになったころ、フィンケルスタインは生徒にまたこんな質問をする。
「無理数って知ってるかね?」
「円周率は無理数だよ」
「円周率が無理数だってなんでわかるの?」
フィンケルスタインは口数が少なくなった生徒に繰り返す。
「他人が『あれは猫だ』とか『円周率は無理数だ』と言ってもそのまま信じちゃいかん。人は知らなくても知ったフリをするもんなんだから。信用できるのは自分だけなんだよ。自分でそれを証明するまでは、猫に見えても猫じゃないと思わなくちゃ」

全国的に有名なレキシントン高校の数学チームでキャプテンを務めるジュリア・ジェングは、両親がそろってアイビーリーグの大学院を卒業した中国人だが、(アジア系移民としては)ユニークな教育方針のために幼いときに高速計算練習をさせられていない。だから、私の娘のように小学校時代は算数が嫌いで「私は数学ができない」と信じていた。空想好きで小学生のときからファンタジー小説を書いて友達に読ませていたジュリアの得意科目は国語だった。
そんな彼女を数学好きにしたのは、フィンケルスタインが新入生に勧めるミヒャエル・エンデの「果てしない物語」とアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子様」だった。フィンケルスタインの言葉に耳を傾けているうち、ファンタジーと数学の世界には共通点があると思うようになった。ひとつの謎を解くたびに、物語の真相に近づいてゆくのがゾクゾクするほど面白い。謎を解く鍵である数学理論をもっと知りたいと思ったのが数学好きになるきっかけだった。

これは、フィンケルスタインが新6年生(レキシントンでは中学校1年生)の最初の週に与える宿題のひとつである。
——–
ほんの少し昔のこと。怠け者イワンがロシアの橋の妖精トロールに会いに行った。そのときの話を聞かせてあげよう。

怠け者イワンは独り言を言った。
「みんな仕事を見つけるか、さもなくはトロールと取引しろと言うけれども、トロールが僕を金持ちにしてくれるなんて思えないなぁ」
そう言い終えるやいなや、近くの橋からトロールが現れてこう尋ねた。
「イワン、おまえは金持ちになりたいんだね」
イワンはうなずいた。
「じゃあ、おまえが橋を渡るたびにポケットの中にある金を倍にしてやろう。おまえは、橋を渡るだけでいい」
早速橋を渡り始めたイワンをトロールが呼び止めた。
「こんなに気前よくしてやっているのだから、私の苦労にちょっとした礼をくれてもいいんじゃないか?どうだい、橋を渡るたびに8ルーブルくれるってのは」
イワンはトロールの申し出を承諾し、いそいで橋を渡った。ポケットに手を入れると、魔法のようにお金は倍になっているではないか。そこでイワンはトロールに8ルーブル投げ渡した。2回めも3回めもポケットの中の金は倍になったが、3回目に8ルーブルを渡したところ、ポケットの中は空になっていた。
トロールは大笑いをして姿を消した。

さて、タチアナも自分の運を試してみようと思った。
しかし、3回橋を渡り終えたところで、彼女はトロールにこう叫んだ。
「なんてことよ!ミスター・トロール、私の手持ちのお金はあなたに会う前とまったく同じじゃないの。前よりも金持ちでもなければ、貧乏でもない。とんでもない橋の魔法だわ」
タチアナとイワンが最初に持っていたお金はいくらだったのかな?
(答えはこちら。でも次の問題もあるので、後回しにすることをおすすめ)

次もフィンケルスタインが6年生に出す「五つの部屋がある家」(下記の図)の問題だ。
「すべてのドアを一度だけ通るとして、全部のドアを通ることは可能か?」という難問である。

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フィンケルスタインは簡単に答えを与えず何週間も悩ませておく。思考する過程こそが重要だと思っているからだ。だから時間ができると生徒は自主的に黒板に集まってああでもない、こうでもないと言い合う。
「この問題は、outside box(箱の外、つまり既定の思考の枠組の外で考える。独創的という意味)でないとダメだ……」独り言を大声でつぶやきながら、黒板に箱の絵を描いている子もいる。
一日じっくりひとつの教科を学ぶ「プロジェクトデー」でオイラー閉路やハミルトン閉路を試みるのも同様の理由だ。これらは、「一筆書き」のようにそれぞれグラフのすべての辺、あるいは点を一度だけ通る閉路のことで、大学のグラフ理論で研究されたりする難問だ。
実は、先の「五つの部屋がある家」もこの種の質問である。「できるかできないか?」、「それはなぜなのか?」、「そこにパターンはあるのか?」と自由に話し合うことで、生徒たちは、「自分の頭を使う」訓練をするのである。
(答えはこちら

教科書を使わないので親も子も気づかないが、ノートや宿題を見ると、6年生の9月から5月までのたった9ヶ月で素因数分解や連立方程式、不等式だけでなく、円の性質や確率、平方根、ピタゴラスの定理と証明、相似図形など日本の中学3年間で教わることをほとんど学んでいる。
私の娘は中学の推薦で13歳のときに大学入学選考に使われる共通試験のSATを受け、数学で4問ケアレスミスをしただけで残りは全問正解だった。試験のための勉強はまったくしていない。すべて学校で学んだ知識だけで十分答えられる内容だったという。
教科書を使い、放課後に塾に通う生徒たちよりもフィンケルスタインの生徒が数学ができるようになるのは、生徒に自分の頭を使って謎を解くことの喜びを教えるからである。

フィンケルスタインを取材したときに、最も心に残ったのが次の言葉である。幼い子供を育てている親にはぜひ読んでもらいたい。

親や教師の言動で最悪なのは、「今おまえがやっていることはすべて、将来のためなのだ」と教えること。まるで今よりも将来のほうが良いことがあるみたいにね。でも、そういう人は「今を楽しまずに嫌いなことを一生懸命やるのは将来のためだ」という態度を大人になってもずっと続けてるでしょ。まるで、それを続けていると死を免れるかのように。でもね、誰だって最後には死ぬんだから。
そういうことを言う大人が今楽しそうに生きていなかったら、子どもは「何のために今がまんしなければならないんだろう?」と思うでしょ。
子ども時代ってのは、一番楽しいものなんですよ。だから、楽しませなくちゃ。大人になるために子供時代を犠牲にするのはもったいない。

才能を殺さない教育 第三章 子供の発達に合わせた学校教育(2)

考える力を早期に摘み取られた子供たち

レキシントン公立小学校のいくつかでは、親のボランティアが「Math Olympiads(算数オリンピック)」という課外活動を運営している。これは数学教育者のジョージ・レンクナーが1979年に始めたもので、小学校4,5年生を対象にしたプログラムと中学生対象のものがあり、現在では全米50州と世界26カ国であわせて約5000チーム、15万の生徒が参加している。
「算数オリンピック」のユニークさは、個人プレーではなくチーム努力を重視していることである。11月から3月まで毎月あるテストのすべてに満点を取らない限り誰も自分が何点を取ったのかは知らされない。私がボランティアに加わったのは、友人の夫がリーダーをしていて断りきれなかったからだ。リーダーのデイル・ディラボーはMIT(マサチューセッツ工科大学)で数学を専攻して心理学者になった変り種である。子供に接する前に、ボランティアの私たちを集めて「算数の楽しさを教える」ためのルールを徹底させた。まず、生徒同士を決して比較せず、決して、「どうしてこんな問題も解けないの?」といった批判はしないこと。そして、算数が苦手な子にはできることを探して褒めることで自信をつけさせる、といったものだ。
私以外のボランティア3人がMIT(マサチューセッツ工科大学)とインドのMITとして知られるIndian Institutes of Technologyの卒業生というのには怯えたが、Math Olympiadsに出てくる問題は文章問題やパズルが中心で、頭の運動としてけっこう楽しませていただいた。下記はサンプル問題である。

samplee1.pdfをダウンロード 

算数オリンピックを二年間指導した私は、ある奇妙な現象に気づいた。

自由に席を選ばせたので子供たちは勝手にグループを形成するようになっていた。
そのひとつは、小学校低学年のころから教師に「優等生」とみなされてきた子供たちのグループである。彼らは無駄口を叩かないだけでなく、助け合って解くべき問題でもほとんど討議をしない。誰かが解き方を見つければみなそれを写す。授業ではないのに、いつも深刻な表情で問題を解いている。単純な計算問題だと他のグループよりも速く、正確なのだが、「袋の中にいくつか同じサイズのビー玉が入っている。黒のビー玉は八個で、残りは赤いビー玉である。目をつぶって袋からビー玉をひとつ取り出して、赤の確率が3分の2だとすると、赤いビー玉の数はいくつか?」とほんのちょっとひねっただけで極端にスピードが落ちる。
何よりも私がフラストレーションを覚えたのは、「状況が分からないなら、絵を描いてみようよ」と手助けしようとすると、「それはいらないから、説き方を教えてちょうだい」とせっかちに「方程式」のようなものを求めることである。
また、「宿題じゃないからいいのよ」と言っても、頑固に問題のコピーを持ち帰ろうとするのも彼らの特長だった。

別のグループは、ともかくにぎやかだ。授業中に教師から叱られるタイプの子が多く、テーブルの上に身を乗り出し、怒鳴りあったり、笑ったり、まるで遊んでいるような雰囲気だがちゃんと問題について話し合っている。このグループに先のビー玉の問題を与えると「16」と即答する子が多かった。「どうしてそうなったのか、他の子に教えてくれる?」と尋ねると、「だって、そんなの簡単じゃない」と当然のことを説明する必要はない、といった感じなのだ。このグループは文章問題の把握が非常に早く、しかもひねった問題ほど熱中する傾向があった。そのかわり、計算となるとさほど速くなく、ケアレスミスも多かった。

もっと興味深い発見は、小学校低学年あるいは幼稚園入園前から公文式などで高速計算練習をしてきた子供たちは私が知る限り全員前者のグループに属しており、後者のグループには公文式に通っている子は誰一人いなかったという事実である。また、年間を通じて最も多くの得点を獲得した者にトロフィーが送られることになっているが、小学校4年生と5年生のトロフィー獲得者はどちらも後者のグループに属していた。

どうやら、幼いときに高速計算練習をした子供たちは、数学に限って言えば自分で考える楽しさと能力を失ってしまったようなのである。
「私の子供は公文に通っていたが、今でも数学が得意だ」という人はいるだろう。だが、それは「…にもかかわらず」なのかもしれない。もしかしたら、その子はもっと優れた数学の才能を発揮していたかもしれないのだ。

才能を殺さない教育 第三章 子供の発達に合わせた学校教育(1)

レキシントン公立学校の小学校に子供を通わせるアジア系の親からよく耳にする苦情は、彼らの祖国の教育に比べとくに算数などの進行が「遅れている」ということである。「公立学校の評判が良いから来たのに、やっていることが生ぬるい」、「うちの子は公文でもっと先のことをやっているからもっと高度の数学を教えて欲しい」といったものが多い。レキシントン公立学校では基本的に小学校1年生を1年早く始めるような「飛び級」は認めていない。飛び級をしている子はたいてい他の町ですでに「飛び級」をしてから引っ越してきた者である。それでも幼稚園の年齢のわが子を小学校1年生にしようとしていた親を知っている。その子の天才ぶりを耳にタコができるほど聞かされたが、彼女が高校2年生になった今、レキシントン高校がオファーする生物学のAPクラスすら受講していない。

その子だけではない。幼稚園のころからボストン近郊の公文式教室(日本人経営のものではない)に通っていたアジア系の子供たちのうち、高校生になった現在、数学で突出した能力を発揮している者はほとんどいない。それどころか、小学生のころクラスで最も優等生とみなされていた者が、完全に能力別編成になる高校では最上級のクラスに入れないこともある。それとは対極的に、公文に通わなかったために同級生に比べると計算が苦手で、「私は算数ができない」と言っていた子のほうが「勉強しなくてもわかる」ほど数学が得意になっている。上記の母親が小学校1年生のときに「文字が読めない」と馬鹿にしていた白人の少女は、高校で外国語を2ヶ国語選択し、3つ目は自己学習している。かつての「天才少女」よりはるかに優れた語学の才能を発揮しているわけだ。

早期教育に熱心な親たちの影響で「小学校1年生のうちの子は読書レベルが遅れている」と心配する友人に、私は「小学校の成績は将来の成功だけでなく、中学校、高校の成績とも無関係。今の時期は好きな本を親が読んでやればそれでいい。そのうち続きが知りたくて自分で読むようになるから」と何度も繰り返している。

後に才能を発揮する子供たちにとって最も迷惑なのは、早期教育をしている子供たちと比較されて「私は勉強ができない」と自信を失ってしまうことである。また、早期教育をされる子にとっては、せっかく生まれつき持っている能力を早期教育によって摘み取られてしまうことと、大切な思春期に「私は勉強ができない」と人生に絶望してしまうことである(下記を参照)。

むろん、小学校のときからずっと完璧な成績を維持している子もいる。それはもともと非常に知能が発達している子か、あるいは睡眠時間を削って勉強している子のどちらかである。もし、11歳くらいまで詰め込みをしなかったのならば、これらの子は睡眠時間を削らずに優秀な成績を取る子に育っていたかもしれないのだ。

Jay N Giedd博士などの文献*を読み、レキシントン公立学校を取材し、子供たちの成長を追った結果、私は、子供が持って生まれた才能を殺さず、将来幸せな生活を送るためには、「中学校までは詰め込み教育をしてはならない」と確信するようになった。

レキシントン公立学校では小学校、中学校、高校の3つの学校で学問レベルが非常に異なる。それは、子供の発達に合わせているからである。

小学校以下の学校教育で最も大切なのは次の3点である。
1)「学校は楽しい場所」であり、「学ぶことは楽しい」と感じさせる。
2)好奇心と自分で考える癖を奨励し、努力と想像力を評価し、自信をつけさせる。
3)社会的なルールを学び、社交性を身につける。

やってはいけないことは、
1)高速計算
2)暗記
3)テストによる成績評価(と親が子供同士を比べること)

「こんなことで将来大丈夫なのか?」と憤る親がいるが、心配しなくてもレキシントン高校に入ったとたん突然学問レベルは高度になる。各学年の科学と歴史で大学レベルの内容を教えるAPクラスがあり、それらのクラスでは、日本の進学校よりはるかに難しい内容をものすごいスピードでこなさなければならない。研究もしなければならないし、論文も書かされる。

この(生ぬるい)小学校と(厳しい)高校の間に勉強の仕方を学び、勉強する癖をつけるのが中学校なのだ。
暗記や計算などのテクニックを身に着けるのはこの時期からで十分、というよりも、中学までは詰め込み教育は「やってはいけない」のである。

*ボストングローブ日曜マガジンの「How the push for infant academics may actually be a waste of time – or worse」という特集記事によると、National Institutes of Mental Health (NIMH)の研究者が5歳から19歳までの子供の大脳皮質の厚さとIQスコアの関係を継続的に調べた結果、「非常に優れた頭脳」のカテゴリーに属す子供の大脳皮質は、平均的な頭脳の子供に比べると、遅れて成熟することを発見した。大脳皮質の厚さがピークに達する年齢が、平均的な頭脳の子供が8歳であるのに対して、非常に優れた頭脳を持つ子供の場合は11歳か12歳であったのだ。研究グループの1人Jay Gieddは、グローブ紙の取材に対して、「これは"兎と亀"の物語のようなものです。2歳-これは馬鹿馬鹿しいレベルですが-で本を読めない多くの人々の多くは、2歳で本を読める子供たちに追いつくだけでなく、彼らを超えるということです」と言っている。
テンプル大学のKathy Hirsh-Pasekは、このグローブ紙の記事で、カードを使って計算や綴りを1歳児や2歳児に教えるような早期教育は、neurological "crowding"という現象により正常な脳の発達をかえって妨げるという意見を述べている。これは、将来もっと創造的なタスクのために保存されているほうがよい脳の部分のシナプスを過剰な情報で"混雑"させてしまう現象だという。
これらの学者の情報については、さらに「洋書クラブ」のこの記事をどうぞ。

才能を殺さない教育 第二章 成功の定義(その4)

客観的な成功を狙うと、幸福にはなれない

取材した生徒たちの何人かはすでに大学生活を経験している。
親ではなく、本人が大学を選び、学力が適していた者は、大学生活を楽しみ、アイビーリーグやMITといった世界で最高の頭脳が集まる大学でも良い成績を取るのには苦労していないようである。
競争の激しいレキシントン高校で成績がふるわず、さほど有名ではないが小規模の優良大学に行った男子生徒は、大学で非常に良い成績を取り、希望した大学院にはすべて入学が認められた。「レキシントン高校では、あまりにも頭の良い子が多すぎて、大学に入るまで自分がこんなに頭が良いとは知らなかった」と彼は笑った。「高校で知らない間に勉強の仕方を学んできたようだ」と私に言ったのは彼ばかりではない。レキシントン町と似通った近隣の町で、競争の激しい公立高校を卒業し、ブランド名が高くない優良大学に入学した者の多くが、大学でさほど努力せずに良い成績が取れることを指摘している。

親が「うちの子は**大学に入りました」と自慢するために大学を選んだ場合、あるいは自分自身がライバルに勝つために有名校を選んだ生徒は、合格したときには嬉しいが、入学した後での幸福度は自分で選んだ生徒に比べると低いようである。
幸福の基準を自分の価値観ではなく、他人の価値観に置くと、数字ではっきりとわからない達成には満足しにくいからではないだろうか。
また、学業以外の理由(スポーツや音楽)で実力以上の大学に入学した者は、学業がふるわずに苦労している。

せっかくアイビーリーグの大学に入学できても、そこで良い成績を取れなかったら大学院には入りにくくなる。かえって、ブランド名が高くない大学で良い成績を取った者のほうがアイビーリーグの大学院には入りやすいのである。

しかし、大学がそうであるように、有名校の大学院に入学するのが成功だという考え方も、他者の評価で自分の幸福をはかっているのは同じである。他者の評価に頼っているかぎり、人は決して幸福を実感することはできない。

成功を実感するためには

私と同年代(40代から50代)で成功を実感している人々の共通点は、「自分の仕事が好きだ」ということである。

大学で都市計画を教えている教授は、夕食を一緒に取るたびに世界各地で自分が関わっている都市計画を身振り手振りを交えて語ってくれる。彼の話を聞いていると、この世に都市計画ほど面白い分野はないように思えてくる。

夫のすぐ下の弟は、日本人どころかアメリカ人でも聞いたことがないような大学を卒業し、最初の職は中堅企業の営業員でしかなかった。それが、いくつもの変遷を経て、現在では日本人でも知っている大企業の重役になっている。自分に自信が持てない青年時代を過ごした彼は、仕事を経てようやく自分の得意分野と価値を知り、自分を好きになったようである。彼のカリスマ性は、仕事を通しての自己発見にあったといえるだろう。

私の夫は、インターネットを中心としたマーケティングとPRの専門家として著作のかたわら講演で世界各地を飛び回っている。もともとは、ウォール街で金融関係の仕事をしていた彼が、まったく異なる分野の専門家になったのは偶然のことではない。
最初のステップは、「大学でこれを専攻したらこの職業につかなければならない」という既成の概念を捨てたことである。そして、次の大きなステップは、「会
社の重役」という他者の評価による成功の概念を捨てたことである。独立してからの幸福感は、今とは比較にならないと彼は言う。

少し年上になるが、引退した小学校の校長は、70歳を超えた現在でも町のボランティアのかたわら大学院で校長をめざす学生を指導している。彼にとっては、教育こそが人生の情熱なのである。

上記の4人の共通点は、MIT,ハーバードなどの大学生あるいは卒業生を相手に講義をする立場にありながら、自らはそれらのブランド大学を卒業していないということである。また、彼らは自分のやっている仕事が好きで、「これ以外のことをやっている自分は想像できない」ということである。
入学した大学で成功は決まらない。そして、好きなことをやる、というのが成功への一番の近道なのである。

才能を殺さない教育 第二章 成功の定義(その3)

大学進学に関するアジア系移民の誤解

アジア系移民の親たちとの会話からひしひしと感じるのは、アメリカでもっとも高い教育を与える大学はハーバードかMIT(あるいはアイビーリーグ大学のひとつ)であり、優れた才能がある子は必ずこれらの大学に入学するという思いこみである。彼らには、これらの大学で優秀な成績を取る頭脳があっても入学を認められない子やこれらの大学にはまったく興味がない子も(数多く)存在するのだということが想像もできないようである。
そして、これらの有名大学に入学できないと人生の落伍者になるという思いこみも典型的だ。
移民の親たちが子供に「勉強しろ。他人に負けるな」とがみがみ言うのは、自分たちもそんな環境で育ち、その結果現在の(成功した)自分が存在するという認識があるからだろう。
少なくとも、レキシントン公立学校を通してアジア系移民と知り合った白人のアメリカ人たちはそのように好意的に解釈している。
好意的な解釈はしても、肯定的にとらえているわけではない。「親の夢を叶えるためにプッシュされる子供がかわいそう」と同情する者や「わが家の教育方針とは異なるのに、学校での競争が過熱てうちの子がプレッシャーを感じている」と迷惑がる者が多い。
そういう親たちのことを、「白人の親は私たち(アジア系の親)のように頭を使わない。だから子供がばかになって将来よい大学に入れなくて後悔することになる」とあざ笑ったアジア系の知人がいたが、その知人の自慢の娘はハーバード大学だけでなくアイビーリーグ大学のいずれにも入学しなかった。大学側が拒否しただけでなく、本人も行きたくなかったのである。そして、小学校1年生で読み書きができず、計算が遅くて彼女の嘲笑の対象であった白人の生徒たちの何人かはアイビーリーグ大学に進学した。

この知人の娘がハーバード大学に入学していたら、ちゃん優秀な成績を取っていただろう。だが、彼女の夢はエリート軍人になることだった。空軍アカデミーでも優秀な成績を取った彼女は軍人として現在エリートの道を進んでいる。この例で私が言いたいのは、最初に述べたように、「これらの大学で優秀な成績を取る頭脳があっても入学を認められない子やこれらの大学にはまったく興味がない子も(数多く)存在するのだ」ということである。

まず、アメリカでは大学の“学問的”評価は、評価する者によって非常に異なる。
USA Todayの大学ランキングは有名だが、これは大学が与える学問の高度さを比べたものではない。入学した者のSATスコアの平均点と、志願者の数に対する入学を許可された学生数といった「入学の難しさ」の比較なのである。出願者と合格者の格差が激しいほど、ランキングは上がる。だから大学はランクを上げるために出願者を増やすためにマーケティングにエネルギーを注ぐのである。
雑誌やインターネットの大学ガイドの評価もまちまちだ。例えば「College Prowler」の学問的ランキングの第1位(2004年現在)は、日本ではあまり知られていないが伝統あるウィリアムズ大学で、それに続くのはスタンフォード、MIT、プリンストン、ダートマスである。ハーバードは7位のジョージタウン大学よりもはるかに下位の13位なのである。
それに、ハーバードのように大きな総合大学では、教授が直接学生を教えずに大学院の学生に講義を任せることが一般的である。それに比べ、リベラルアーツと呼ばれる小規模の大学では、必ず教授が学生を直接指導するために教育の質が高くなる。この4年間の差のために、有名大学院にはリベラルアーツ大学からのほうがアイビーリーグ大学からよりも入学しやすいとも言われる。

次の誤解は、アジア系の親が忠実に従う入学選考の要点である。
白人の親が指摘するように、アジア系の子供は幼いころからピアノと弦楽器を学び、公文式教室に通う傾向がある。中学生になると、夏休みに日本の塾に似たクラスや泊まりがけのキャンプで数学や科学の講義を受けるようになり、高校では標準テストのSAT準備クラスを受講する。
しかし、これらの戦略が実際に役に立つのはわずかな割合のアジア人でしかなく、残りの学生にとってはかえって逆効果になりかねない。

優れた高校に入学することの逆効果

日本と異なり、SATで満点を取っても有名大学に入学できる保証はない。ハーバード大学では、毎年SATで満点を取った学生を何十人も不合格にし、さほど有名ではない大学の合格者平均SAT得点よりも低い点数の生徒を受け入れている。

SATより重要なファクターは、人種と社会経済的なディバーシティ(多様性)である。
有名大学では、実社会を反映したディバーシティを実現するために、通常の入学選考では欠けるカテゴリー(経済的に恵まれない生徒やアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系アメリカ人など)の生徒を優先的に入学させる。マイノリティであれば有利かというと、そうではない。ハーバード大学とMITはアジア系の生徒に人気があるので、応募者も多い。大学はひとつのカテゴリーだけを増やしたくないので、アジア系の生徒同士が比べられることになる。一生懸命SATのために勉強をしても、高校で完璧な成績を取っても、ヴァイオリンとピアノを演奏できても、同じようなアジア人が何百人も入学を希望している状況では、それらが他のアジア系学生に比べて優れていないかぎりは、特別な能力とはみなされない。

それどころか、標準テストのSATを施行するCollege Boardの”The Downside to being an overachiever”
http://www.collegeboard.com/student/plan/high-school/extracurriculars/150225.htmlによると、むしろ大学はこれらの“overachiever(やりすぎの成功者)”を敬遠するらしい。5歳のころから寝る時間も惜しんでピアノの練習をしたとしても、「どうせ、大学入学対策として習ったのだろう」という批判的な目で見られてしまうというのだ。

加えて、レキシントン町には、子供を良い大学に入学させるために越してきたアジア系移民が予期していなかった「落とし穴」がある。
教育分野を専門にしているジャーナリストジェイ・マシューズの「Harvard Schmarvard」は、少数のスーパースターの生徒は別として、優れた高校に通うとかえって有名大学への入学のチャンスが低くなる事実を指摘している。なぜかというと、高校での生徒のランキングを大学が重視するからである。
有名私立あるいは第一章で説明した「マグネットスクール」では、SATスコアが満点に近い生徒が山ほど存在する。普通の町立公立高校であれば全校で1位か2位の成績ランキングだったはずの生徒が、マグネットスクールに入学したために全校で30位程度になってしまうことは珍しくない。大学は、SATスコアが多少低くても、マグネットスクールで30位の生徒ではなくて、普通高校の成績ランキング2位の生徒を取るのである。
レキシントン高校はマグネットスクールではないが、良い学校を求めて移住してきた者が多いために、マグネットスクールに近い環境ができあがっている。実際に、2007年のSATの結果は、私立とマグネットスクールを除くと、マサチューセッツ州でトップである。

それゆえ、他の学校であれば容易にトップに立てる生徒がレキシントン高校では“普通”のレベルになってしまう。APまたはオナーズ・クラスには人数制限があるので、クラスについてゆける能力に達していても自分よりも優秀な者が多ければそのクラスに入ることは許されない。また、オナーズ・クラスに入ると、皆が優秀なので、AどころかBを取ることも難しい。従って、よその高校であれば、大学の入学選考で最も重要だと言われる「高校で選択した授業とその成績」で卓越していたはずの生徒でも、レキシントン高校に行ったために「まあまあ」程度の結果しか提出できない。
マグネットスクールや有名私立と同様に、レキシントン高校からはかえって有名大学に入学しにくい可能性があるのだ。
(しかし、これは「良い大学に入学すること」を成功の絶対条件にした場合の「落とし穴」であり、子供自身の将来にとってはかえって良いことなのかもしれない。それについては別の章で述べることにする。)

才能を殺さない教育 第二章 成功の定義(その2)

アメリカの大学入学選考システム

日米の大学入学へのプレッシャーは似ていても合格を決める選考方法は異なる。日本を含めアジア諸国では入学試験ですべてが決まるが、アメリカでは、入学選考を担当する “College Admission Officer”という専門職が提出された書類と面接の結果を審査し、合否を決定する。その過程と何が決定要因になったのかは極秘であり、学生は最後まで合否の理由を知ることはない。 ただし、書類審査で最も重視される一般的な内容についてはよく知られている。それらは以下のようなものである。

1. 高校で選択した授業とその成績

これは多くの大学が最も重視する情報である。 高校の成績は通常A,B,C,D(もっとも高い成績はA+で、A, A-, B+, B….と続く)で表現され、それを数字化した平均値「GPA(Grade Point Average)」は、大学入学後の学生の成功の可能性をある程度予測するために重視される。 大学レベルのカリキュラムのAPあるいはオナーズ・クラス(習熟度別クラス編成などでの上級クラス)を学生が受講しているかどうかも大学側は重視する。 一般的に、大学は難易度の低いクラスでAを取る生徒よりも、難易度の高いAPやオナーでBマイナスを取る生徒を高く評価する。

2.標準テストのスコア

高校によりレベルに差があるので、GPAだけで学生を比較することはできない。そこで、全国的な標準テストのSATあるいはACTのスコアが参考として使われる。 2006年に改良されたSATでは、読解、数学、作文(そのうち1セクションは25分でエッセイを書くこと)の3つの能力をテストする。 ACTは、英語、数学、読解、自然科学ですべて選択問題である。

アイビーリーグやスタンフォード、カリフォルニア大学各校、カリフォルニア工科大学、マサチューセッツ工科大学、ウィリアムズ、スワースモア、アムハースト大などの出願者には、SATが満点なんていうのは珍しくもない。何度も受験できるし、テクニックさえ身につければ誰でもある程度の点は取れる。

大学側もそれを知っているので、ある程度の点数があれば、さほど重視はしない。満点でも不合格になることはよくある。

3. 授業以外の活動 スポーツ、音楽、奉仕活動など学校の授業以外の活動

オリンピック、国体出場レベルのアスリートであれば、アイビーリーグやスタンフォード大、カリフォルニア大学の各校など有名大学からスカウトしてもらえる。成績が非常に良い必要はない。「えっ!あの子が?」というような成績の子でもアイビーリーグの大学に合格している。地方大会レベルで優秀なアスリートの場合、学校の成績が非常に良くても、スポーツを重視するアイビーリーグやスタンフォード大などの入学にはまったく有利にはならない。

ピアノやヴァイオリンなど音楽も重視されているが、これらの楽器を演奏するアジア人は多いので、よほどのレベルでないと有利にはならない。

かえって学校でのスポーツや音楽での活躍のほうが、リーダーシップと学生の入学後の成功度を推察するために良いとみなされているのか、重視されている。

米国の大学入学専攻のほうが日本の大学入試よりも大変だというのは、これらを行っていないと良い大学に入学することができないからである。「勉強ができるだけではダメ」というのは、生徒にとっては、かえってストレスがあるものなのだ。

4. 出願エッセイ

これは非常に重要。

成績などの条件が似通った志願者の中から一人を選ぶ場合に、魅力的なエッセイを書いているだけで有利になる。

また、成績が多少他の生徒より劣っていても、大学が内容に個性や才能を感じたら、それだけでも合格する場合があるという。(実際にそれでMITに合格したと信じている学生に会ったことがある)

5. 推薦状

学生の前途を予測させるので、高校の成績と同じほど重視する大学もある。

大学にもよるが、一般的に高校のジュニアかシニア(3年目か4年目)で選択したクラスの2人の教師(理数系から一人、文系から一人)からの推薦状が必要である。生徒が自分で教師に依頼する。教師は生徒に内容を見せずに大学に直接出すので、内容は非常に正直である。教師の中には、生徒から依頼されたときに「書いてもよいが、あまり良い内容にはならないよ。それでもいいかい?他の先生に頼んだほうがよいかも」とはっきり伝える場合もある。 補足の推薦状として、属しているスポーツクラブのコーチ、奉仕活動の責任者、クラブの顧問など、活動の内容と合致する人物のものも効果的だが、あまり多く出すと、かえって逆効果になることがある。

6.レガシー入学(Legacy Admission)

親族がその大学にコネクションがある場合(教授、理事、卒業生、寄贈者、など)優先的に入学を認められる制度。特に、古く伝統がある大学でこの傾向が強いと言われる。

7. 人種/社会経済的背景

黒人、ヒスパニック系アメリカ人、アメリカ原住民(アメリカ・インディアン)と都市部の社会経済的にハンディキャップのある学生の場合、SATスコアが他の学生よりもきわめて低くても入学を許可されることがある。

その目的のひとつは、社会的にハンディキャップがある学生に成功のチャンスを与えることである。潜在的能力を持っていても、高等教育を受けていない親に育てられた子供のSATスコアが低いことはすでに多くの研究結果で明らかになっている。優れた大学にとっては、そういった学生の潜在能力を見極めて成功に導くことが、ひとつのチャレンジなのである。 もうひとつの目的は、現実社会全体を反映したバランスのとれた環境で学ぶことで、恵まれた立場の学生もかえって多くのことを学べるという考え方である。

ただし、一般的にテストの成績がよいアジア系学生は社会的にハンディキャップがあるマイノリティとはみなされない。特に、アジア人が好むハーバード大学やMITにはアジア系の志願者が多いので、アジア人であることは有利にはならない。中西部のあまりアジア人が多くない大学では、有利になるかもしれない。

 

これらはあくまで一般的な検討項目であり、どの項目がもっとも重視されるのかは、それぞれの大学が求める学生像により異なるだけでなく、時代の流れに従い変移している。 入学試験という白黒がはっきりした選択方法に慣れているアジア系の移民にとって、このようなアメリカの大学入学選考を完璧に理解することは難しい。システムの差を頭で理解しても、感情的な部分では、生まれ育った国の価値観をひきずってしまう。

才能を殺さない教育 第二章 成功の定義(その1)

アジア系移民の“成功の定義”と落とし穴

「あなたにとって子供の成功の定義は?」

こう尋ねると、日本人や韓国系移民は「そりゃあ、よい大学には行って欲しいけれど……」とあいまいに言葉を濁すが、たぶん文化の差なのだろう、レキシントン町に住む中国系移民の多くはあっさりとこう答えてくれる。

「私たち中国人の間では、ハーバード大学かMIT(マサチューセッツ工科大学)でないと……という思いこみがありますね。実際同じ通りに住んでいる中国人家庭の子どもたちは、ハーバードとMITに入学したから、こちらもそうしなくちゃならないような、そんなプレッシャーがありますよ」

中国大陸からの移民である両親を持つアルバート・チェンはレキシントン町の中国系移民が目標とする存在だ。高校の最初の2年間で数学のもっとも難しい過程を終えてしまい、3年目にはハーバード大学の延長プログラム、四年目にはスタンフォード大学の遠距離授業の最高レベルを修了し、数学チームではキャプテンを務め、全国レベルの大会で数々の優秀な成績を収め、化学コンテストではニューイングランド地方大会で二位になり、高校三年生の夏休みには全米で五十人だけが選ばれるMIT(マサチューセッツ工科大学)の研究プログラムに参加し、クラスメイトの誰よりも先にMITとハーバード大学の両方から合格通知を受け取った。アルバートの兄もMITに通っている。

実際にレキシントン高校からは2003年度はハーバード大学に5人、MITには8人入学しており、この数は町立の公立学校としては全国でトップレベルであり、他のマサチューセッツ州の優秀な公立学校と比較しても多い。しかし、約400人の卒業生のうち2割以上がアジア系であることを考慮に入れると、中国系移民の子弟全員がハーバードかMITに入学していないことは明らかだ。「ハーバードかMIT」を成功の定義にすると、9割以上のアジア系学生は人生の落伍者ということになってしまう。

しかも、レキシントン高校には、「わが子を良い大学に入学させる」ことを期待して他の町よりも高い不動産を買ったアジア系移民が知らない「落とし穴」がある。そこそこ優秀な生徒にとっては、大学入試というものがないアメリカの制度においては、レキシントン公立学校からトップレベルの大学にはかえって入学しにくいのである。

その理由を説明する前に、まずアメリカの大学入学選考システムを説明しよう。