パンデミックのさなかに入院した母が退院できないまま先日他界した。
2020年2月末から出版イベントもかねて帰国する予定だったが、その直前になって新型コロナウイルスの感染者が世界中に広まり始めた。感染者を出しては申し訳ないと判断して直前にイベントをキャンセルしたが、母に会うためだけに帰省したいと思っていた。でも、「ウイルスを持ち込む可能性がなきにしもあらずだから高齢者のお母さんに会うのは遠慮してほしい」という家族の意見を受け止めて帰国そのものを中止したのだった。
最後に会ったときの母は、「好きな時に寝て、好きな時に起きて、食べたい時に食べたいものだけを食べられる(誰からも文句を言われない)」と父が亡くなった後の自由なひとり暮らしを謳歌しているようだった。「数学と物理を学び直しているの」と新しく買った本と小さな文字でぎっしり書き込んだノートを見せ、「80歳を越えてもまだ新しいことが学べるのが楽しい」とウキウキした様子で報告してくれた。私の心の中での母はこの時のままで止まっている。
母が入院したという知らせを受けたときに帰省を考えたが、アメリカから日本に帰国するための厳しい「水際対策」を我慢しても面会は許されない。冬の感染ピークが収まると思われる来年3月にフライトを予約して、それまでに回復してくれることを祈っていたのだが叶わなかった。
海外文学が大好きな文学少女として育った母は、職場で出会って恋心を抱いた父と結婚したときには『赤毛のアン』のような将来を夢見ていたのかもしれない。ところが「嫁入り」の現実は厳しかった。父がわがままだっただけでなく、わが家では父の母親(私の祖母)が女王のように君臨しており、決定権をすべて握っていたからだ。母は父から命じられるままに小学校教師としての月給を袋のままで祖母に渡し、そこから毎月「小遣い」を受け取っていたらしい。実家で暮らしていた頃のようにピアノや琴の練習をすると祖母から「うるさくて落ち着けない」と愚痴を言われるのでやめてしまった。別の家でひとり暮らししていた父の祖母(祖母の母)も加齢を理由にわが家に越してきて、母の居場所はますますなくなってきた。
何よりも辛かったのは、曾祖母が長女である姉を、祖母が次女の私を自分の娘のように独占するようになったことだという。私と姉は母が妹を特別扱いしていると思って憤っていたものだが、母にとっては妹だけが「わが子」として独占できる子だったのだ。
伴侶の両親と同居する「嫁入り」をしたのも三姉妹のなかで妹だけであり、母にとっては一番心が通じるのが末っ子だったようだ。子どもの頃には少し嫉妬したものだが、大人になって母を理解できるようになってからは、長年にわたって母を心理的に支えた妹に感謝している。
家庭の権力者である祖母からわが子のように扱われていた私にとって、家庭での母は居候のように影が薄い存在だった。同じ学校の教師だったので学校で見かけることもあり、「学校の先生が家に住んでいる」という感覚だった。小学校1年生の終わりに母が別の小学校に転任になり、全校生の前で「お別れの挨拶」をしたことがあった。周囲の子どもたちが「もう渡辺先生に会えない」と泣くので私も悲しくなって泣き出した。それなのに家に戻ったら母がいてなんだが不思議に思ったのを覚えている。
わが家では祖母も、曾祖母も、父も、それぞれに強い個性があり、存在感もあった。強い個性がぶつかりあうこともあったが、血がつながっている彼らは和解することも簡単だっただろう。それらの強い個性の中でなんとかうまくやっていくために、母はわざと自分の存在感を薄くしていったのかもしれない。
母が私たち子どものためにやってくれたことを理解し、それらに深く感謝するようになったのは、私がかなり年を取ってからのことだ。
私が4歳で3歳上の姉が小学校2年生の時に小学館が『少年少女世界の名作文学』(全50巻)を毎月1巻のペースで刊行し始め、母はそれを定期購読してくれた。姉が夢中になって読んでいるのが羨ましくて、私は自分で文字を学んで読み始めたらしい。最後に会ったときの思い出話で、「由佳里は誰も教えていないのに自分で文字を覚えたのだから偉いわね」と母が感心したように言っていたが、もしそれが本当なら、それは母が与えてくれたモチベーションのおかげだ。
また、多くの場所で書いているように、私が「いつかイギリスに行く」という夢を抱いたのは、この全集に収録されていた『秘密の花園』を読んだからだった。
その夢を叶えるために必要な英語を学ぶきっかけを与えてくれたのも母だった。NHK基礎英語のテキストについてきた赤いソノシートと、そこから流れてきた”This is a pen.”という初めての英語にトキメイたのを今でも覚えている。
ダリ、ピカソ、モネといった巨匠の作品とアートの魅力に出会ったのも、母が定期購読した世界名画全集からだった。私たち姉妹は、世界の名作文学や世界名画全集、百科事典を材料にして、空想の世界を旅するようになった。周囲に田んぼしかない田舎町に住んでいた私たちにとって、母が与えてくれた世界に通じる扉は眩しいほど光っていた。
母は、印刷物だけでなく本物のアートにも触れさせる努力をしてくれた。近くの都市で名画展が開かれたとき、母は面倒臭がる父を説得して運転してもらい、親子5人ででかけた。ところが、もどる途中で乗り物酔いの癖がある私が吐いてしまい、車を汚されて怒った父は小学生の私と母を残して車で自宅にさっさと戻ってしまった。私と母はバスを乗り継いで何時間もかけて帰宅したのだが、その時の母の心境はやるせないものだっただろう。こんなに嫌な体験をしても、母は諦めなかったのだ。
短期間だが、母と父が自宅の一部を使って「貸本屋」を営んだことがある。ビジネスとしては大失敗だったようで長続きしなかったのだが、これは祖母に遠慮せずに本を沢山購入したかった母の策略だったのではないかと今では思っている。なぜなら、それらは箱入りの『世界文学全集』、同じく箱入り特別装丁の三島由紀夫の『豊饒の海』4巻、牧野富太郎の『牧野日本植物図鑑』などといったものであり、近所の人が軽く読みたいと思うような選書ではなかったからだ。
これらの本は無駄にはならなかった。小学生の私は学校から戻る途中に花や草を摘んで持ち帰り、『牧野日本植物図鑑』でそれらを調べるのが好きだった。『少年少女世界の名作文学』を卒業した中学生の私は80巻以上あった『世界文学全集』を完読する目標を立てて実行し、大学生の私は高級レストランのディナーに誘ってくれた男子に読んだばかりの『豊饒の海』について熱く語りすぎて閉口させてしまった(次のデートの誘いはなかった)。
「勉強しなさい」とひとことも口にしなかった母は、私が好奇心にかられて自ら進んで学ぶ環境を作ってくれたのだった。
自分が望む英語学習や海外留学に反対して妨害し続けた父に対抗するために、私はresourceful(困難な状況のなかで解決策を見出す策略家)になり、早期に経済的に自立し、精神的にタフにならなければならなかった。そのパワーのもとになったのが私の中にある抑えきれない「好奇心」と「情熱」だった。一生役立つそれらの武器を与えてくれたのは母だったのだ。
アメリカのボストン近郊に住み、英語で出版された本をレビューして紹介し、たまに翻訳し、たまに絵を描き、その合間に森にでかけて植物やキノコを観察して記録する現在の私の素地は、こういった子ども時代に作られたものなのだろう。
ずっと長い間、私は自分ひとりでこの人生を切り開いたようなつもりでいた。でも、母が蒔いてくれた種がなかったら、現在の私はありえなかった。
母はある意味とても平凡であり、とても非凡だった。他人の言動を悪くとらえて憤る癖があった父とは逆に、母は他人の悪口をまったく言わなかった。小学校で別の教員に虐められた心労で身体を壊して早期に引退したのだが、そんな扱いをされても他人の陰口は言わなかった。
私たち姉妹が大声で口喧嘩をしていたときにも怒鳴りつけるかわりにカセットテープにそれを録音し、「これを聴いて反省しなさい」と諭す人だった。私たち姉妹の声はとてもよく似ていたので「これ言ったのは、私じゃないよ。お姉ちゃんでしょ」「違うよ。由佳里だよ」と再び大声で口論をはじめてしまい、役には立たなかったのだが。
母は「褒める」人でもあった。噂話が好きな近所のおばさんについても「あの人は噂が好きなのでちょっと避けているの」と舌を出して笑うだけで、ほかの人は「●●さんは話がとっても面白いのよ」とか「●●さんは雪が降ったら言わなくても雪かきをしてくれる」といつも褒めていた。母の話を聞いていると、私の生まれ故郷の町は優しくて楽しいキャラクターだらけのコージーミステリの世界だった。そうでないことはよく知っていたけれど、母は父とは対照的に世界の良いところを見ることに決めていたのだろう。
東京の高級レストランでコース料理を食べている時にも、母は一品出てくるたびに給仕の人に「ありがとうございます。美味しそう」と丁寧に礼を言う。おかげで私も世界中のレストランで同じことをするようになってしまった。
アメリカで娘を育てているときにふと気づいたことがある。娘は友達の陰口をまったく言わないのだ。水泳のトレーニングでティーンの少女数人を運転してあげることがよくあったのだが、そこにいない人の無責任な噂話を楽しむ子が多くても娘は黙っていて加わらなかった。そういうところが母にそっくりで、「そんな遺伝もあるのだろうか?」と不思議に思ったことがある。
子どもの頃には影が薄い存在だと思っていたのだが、振り返ると私の人生にとって重要な影響を与えてくれたのは母だった。私が気づいていなかっただけで、私は母から沢山の貴重な贈り物を受け取っていたのだ。
最後に実家を訪問したとき、2人きりで何日か過ごすことができた。そのとき、思い出話をしながら「今の私ができあがったのは、お母さんが買ってくれた『少年少女世界の名作文学』のおかげ」と伝えることができて本当に良かった。
母に会って感謝の言葉を繰り返すことはできないけれど、残りの人生、自分が与えてもらった贈り物を無駄にせずに生きようと思っている。
