コミュニケーションを取る努力をしない人とはコミュニケーションは取れない

取材することが多いので、「他人の話を聴く」ことには慣れているつもりだ。ことに大統領選挙など政治が絡む取材では、自分とはまったく異なる政治的立場の人の意見であっても反論などはせずに考えていることを引き出すようにする。

仕事ではただひたすら耳を傾けるが、プライベートなシチュエーションでは同じマインドセットにはなれない。プライベートな場でのコミュニケーションは完璧ではなくても相手と自分の「話す」「聴く」が同等であることを期待する。期待している自分を自覚しているので、私はなるべくこの2つが同じくらいになるように心がけている。ついうっかり自分の「話す」の比重が大きくなったときには、そのバランスを改善する努力もするようにしている(できていない時もあることは重々承知のうえで)。

アメリカの小学校のPTAで学んだことのひとつは、リーダーに選ばれる人はこの「話す」「聴く」のバランスを保つ技能を持っているということだった。PTAの会長と話をした時に、それは努力によって培われたものだということも知った。

生まれつき他人とコミュニケーションを取るのが上手な人はもちろんいるけれども、多くの人は努力でその技能を身に着けているのだ。

それに気づいてからは、仕事だけでなく、家庭内でもコミュニケーションで努力をするようになった。相手が重要だと感じていることを聴き出し、自分が重要だと思っていることを(なるべく感情的にならず、相手を糾弾するような口調にならないように)伝える、というものだ。

心がけていても感情的になることはあるし、コミュニケーション不足になることはある。コミュニケーションが壊れると、関係が壊れる。だからこそ、重要な関係については、毎日のコミュニケーションの努力の継続が必要なのだ。

しかし、どんなに自分が技能を身に着けて努力しても、コミュニケーションを完璧にすることはできない。コミュニケーションは相互関係である。自分だけが努力して相手が努力しない場合には、一方通行になってしまい、自分だけが疲弊する。

私も昨年に、日本に住む家族との間でそういう辛さを体験した。私はアメリカ式に「不満に思っていることがあれば、相手にそれが伝わる方法で伝える努力をしなければならない。家族であっても他人なのだから、心を読むことはできない」と思っているが、日本では「言わなくてもわかるはず」という感覚を持っている人が多いように思う。そして言わなくても理解しない人に対して立腹する。だから何度やんわりと質問や要求をしても答えは戻ってこないし、こちらがしびれを切らして直球を投げると「糾弾している」と思われてしまう。挙げ句の果てに突然キレられて、酷い言葉を投げつけられる、といったことだ。

「だんまり」の間に、彼らはきっと頭の中で架空の私との会話をしているのだと思う。その架空の私に怒りをつのらせて突然の「罵声」になのだろう。架空の私と話すより、現実の私と話してくれれば誤解もとけると思うのだが、それをしてくれないので、私には対処できない。

「だんまり」あるいは「罵声」だけで対応する相手とは、こちらがどんなに努力してもコミュニケーションを取ることはできない。

その場合に自分に対してする質問は「それでも維持したい関係なのかどうか?」である。

私の場合、夫や娘とのコミュニケーションでムッとすることは限りなくある。相手もきっとそうだろう。2人はそれぞれ異なるパターンがあり、それらが私のものとは一致しないことはよくある。だから、ムッとした時には相手の頭の中で何が起こっているのかを想像して、それに合わせるようにしている。例えば私が送ったメッセージに娘が応えないときには、彼女が意識的に無視しているのではなく、「このメッセージは重要性が低いので、読むだけで応えなくてもいい」と思っているのだろうと考える。

なぜ努力するのかというと、私にとって大切な関係だからだ。そして、相手がそれなりに私に合わせる努力をしていることも知っているから。

想像しただけで辛くなり、日常生活にまで悪い影響を与えるコミュニケーションとその相手がいたら、「この関係はそこまで重要なのだろうか?」と自問してみるといいかもしれない。答えが「No」であったら、現実的に縁を切ることができなくても、心の中で距離を置くことで、心が救われる。

人間関係で悩んでいる人、自分を責めている人は、「コミュニケーションを取りたくない人とは、コミュニケーションは取れない」と諦めてみてほしい。そして、余ったエネルギーを大切な人とのコミュニケーションにまわしてみよう。





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