とある日本の皇族の結婚についてここ何年も話題になっていた。ネットでよく見かけていたが私には関係のないことだからニュース記事も読まなかったし、賛否の会話にも加わらなかった。ソーシャルメディアで無事結婚されたのを知り、「これで外野も落ち着くだろう」と思っていたら、まだお相手の人格攻撃などが続いているようでネットでの話題が消えない。
私はニュースを追っていないし、多くの人が話題にしていた結婚の記者会見も見ていない。なぜなら、「私があれこれ口をはさむことではない」からであり、「結婚する2人が誰であっても幸せになってほしい」からであり、「ほうっておいてあげてほしい」からだ。たぶん既に多くの人がいろいろな角度から分析したコラムを書いているとは思う。私はずっと黙っているつもりだったが、「ほうっておいてください」という気持ちが強くなったので、それだけを書かせてもらいたい。
イギリスのハリー王子とメガン妃の王室離脱宣言のときにも同じような気持ちで一度だけ「歴史を変えたのは『行儀が悪い女性』たちだった」というエッセイで話題にしたが、今回は少し違う観点から書きたい。
メガン妃のときもそうだったが、こういうとき、私のなかに「ほうっておいてあげて!」という気持ちが強くなるのはなぜだろう?
その部分を掘り下げてみた。
これらのことで私が嫌だと感じる対象にはいくつか異なるものがあることに気づいた。次のようなものだ。
1)ゴシップに意見や批判の形で参加することで「いじめ」をエンターテイメントとして楽しむ大衆心理
2)メディアで話題になっている人たちに感情移入し、親族や友達のつもりでアドバイスしたくなる人間の心理
3)それらの人間の心理をうまく利用して読者を増やしているメディア
1)はともかく、2)には「皇族の女性が人生に失敗する」ことを心配している人もいるだろう。私がSNSでよく見かけた「われわれの税金で暮らしている皇族なのだから、納税者として意見を言う権利がある」、「人格的に問題がある男性と結婚する彼女が心配だから反対する」といったコメントはそういった感覚から出てきていると思う。
たとえ悪気がないとしても、私はやはり嫌な気分になる。
それは、「納税者として意見を言う権利がある」が、大学進学や海外留学などで私が自分の希望を口にするために「育ててやったのに」と反対してやめさせた父を思い出させるからかもしれない。
高校生の私が短期間で経済的に独立する職業につくことを決意したのも、自分で働いたお金で留学したのも、故郷から遠くはなれた場所で生活してきたのも、「育ててやったのに」という言葉が持つ束縛から離れたかったことが強く影響している。
だから私は娘が生まれたときに「育ててやったのに」という呪いの言葉で子どもを呪縛する親にはならないと誓った。
私がイギリスのロイヤルファミリーや日本の皇族の結婚の話題で「ほうっておいてあげて!」と強く思うのは、彼らに感情移入している部分もあるが、それ以上に彼らの「親」のような気持ちになっているのではないかと思う。
夫は娘が生まれたときに「育ててやる、という恩を着せてはならないし、見返りも求めてはならない」「楽しい思い出を与えてくれることに感謝するべき」と子育ての基本的な方針を語った。幸いなことに、それは娘が成人し、結婚した今でも続いている。
親として娘や娘夫婦に対して「こうしたほうがいいのではないか」と思うことはある。でも、彼らから相談されない限り、私たち夫婦は黙っている。なぜなら、彼らの人生は彼らのものだからだ。自分で考える能力があるし、失敗して、そこから学ぶ権利もある。
私たち親がやるべきことは、子どもが助けを求めてきたときに受け止めてあげることだと思っている。
税金で「養った」皇族の女性が自分の気に入らない男性と結婚するとしても、国民は親としてそういう気持ちになってもらえないものだろうか?
そのもどかしさがあるから私は人格攻撃や余計なおせっかい的なコメントを読むのが嫌いなのだと思う(それらに対して、支えたい気持ちやかばいたい気持ちを表現しているコメントは別)。
上記の3)さえなくなれば、1)も2)もなくなるはずなのだが、収入の目的でやっているメディアに道徳心を求めるのはたぶん無理だ。それを変えるためには、1)と2)のところで個人がなんとかするしかない。
実は、「意見を言わない」「アドバイスしない」ことのほうが難しい。人は自分の意見を誰かにわかってもらいたいし、押し付けたくなってしまうものだから。
難しいことだからこそ、余計な意見やアドバイスをしない人を私は尊敬する。
「あえて言わない」ということが、もっと尊敬される新時代が来ることも願っている。