住民が手作りする公教育4

3章 住民が徹底的に参加する公立学校

 

前章でご説明したように、レキシントン町の小学校では、応募した候補者を校長と保護者代表が一緒に面接し、話し合いのうえで雇用する教師を決めます。

それだけでも十分驚きですが、教師だけでなく校長を決める過程にも保護者が加わるというのです。

この町の公立学校の構造はどうなっているのでしょうか?

図式で説明すると、任命のシステムはこのようになっています。

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「任命」はこのようにシンプルですが、選出のプロセスはもっと複雑です。

レキシントンの公立学校システムの頂点には5人のメンバーで構成される教育委員会(School Committee)がいますが、委員会のメンバーは町民であり、彼らを選挙で選ぶのも町民です。

ふつうの選挙のように候補者が立候補し、住民選挙が行われます。ただの町の政治と馬鹿にしてはいけません。ちらし、手紙、演説、選挙広告、電話作戦…と、ふつうの選挙のようなキャンペーンが繰り広げられるのです。ですが、そうまでして得るポジションは、無給の「町民ボランティア」なのです。

 

「教育長(Superintendent)」はボランティアではなくプロの専門職で、この町の住民である必要はありません。「雇われ社長」のようなものだと思えば理解しやすいかもしれません。

教育長には公立学校のカリキュラムを決める権利があり、小、中、高の校長を独断で雇う権利もあります。けれども、その権力を行使して自分だけで決めた独裁者的な教育長はこれまでいませんでした。

プロセスに必ず住民(保護者)を参加させるのは、彼らの協力なしにはやっていけない仕事だと分かっているからです。

 

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この民主主義のプロセスを実際に体験する機会がやってきました。

1998年から2004年にかけてレキシントン公立学校では「教育長」が4回も代わることになり、教育界ではある種のスキャンダルとして取り扱われていました。2004年に現職の教育長のジョアン・ベントンさんが退職を発表したときに、暫定教育長として日常業務を引き継いだ副教育長が教育長になる意志がないことを表明したのは、それだけ困難な仕事だからです(それについては後の章で触れることにします)。レキシントン公立学校教育長のポジションは「教育長」という専門職の間では大企業のCEOのようなものだと誰かが言いました。そのプレッシャーに耐える自信とチャレンジ精神がある人にとっては、非常に魅力的なポジションなのです。

重要な役割ですから、選出するプロセスも簡単なものではありません。


私は、ブリッジ小学校の元PTA会長で、元教育委員のスーザン・エルバーガーさんに伴って新しい教育長を雇うプロセスを追うことにしました。エルバーガーさんは、教育長の雇用を最終的に決定する「search committee(選出委員会)」のメンバーを勤めたこともあります。

 

2004年にベントンさんが退職を発表してすぐに公募が始まったのですが、教育委員と暫定教育長が最終候補4人に絞り込むまでには数ヶ月がかかりました。レジュメだけでは判断できませんし、面接も何度かくり返されるのです。

候補が4人になった時点で、地元の新聞やPTAを通じて住民に公開され、候補との通称「コーヒー」の機会が儲けられます。これは「coffee with candidates(候補者とコーヒーを飲みながらざっくばらんに語りあう機会)」のことで、小規模の選挙から大規模のものまでアメリカ合衆国ではよく行われるシステムです。

教育長との「コーヒー」では、異なる4つの小学校がひとりの候補のホストになり、学校の図書館など多くの人が集まることができる場所を提供します。そしてPTAが出すコーヒーやドーナッツ、マフィンを片手に、まず候補者の話を聞き、それから気軽な質疑応答を交わすというものです。子どもが公立学校に通う保護者だけでなく、住民であれば誰でも参加できます。なぜかというと、この町の公立学校の運営資金の大部分は町民が払う固定資産税(地方税)でまかなわれているからです。その年により異なりますが、この年は町の税収入の約60%が公立学校の資金に費やされていました。これだけの金額を払っているのですから、子どもがいない町民にも十分「口を出す」権利はあるわけです。

私は4人の候補全員の「コーヒー」に参加したのですが、このうち最も印象に残ったのがアッシュ氏でした。

他の候補が、いろいろな立場の人の反応を気にして口ごもった難しい質問があります。

「予算を切りつめなければならないときの決断はどうしますか?」というものです。保護者、教師、子どものいない住民、それぞれが異なるものについて「これは無駄使い」「いやそうではない」と常に争う部分です。

アッシュ氏は一瞬も迷わず「子どもにとって必要なものを優先し、教師が欲しいものは後回しにする」と即答しました。

この調子で、すべての質問に対してアッシュ氏は冷たいとも言えるほど迷いなく答えるのです。自分の中にしっかりとした基準があるのではないかと私は感じました。

「教師が欲しいものは後回し」と言いつつも、現在プライベートな組織が資金を集めてまかなっている「教師のメンタリング」については「非常に重要な部分だから町の予算でまかなうべきだ」と答えたのも、私の推測を裏付けするものでした。

他の出席者が感心したのが、アッシュ氏の「予習」でした。

「レキシントン町の教育長が長続きしない原因」をつきとめるためにこれまで辞めた教育長に会って話を聞いたというのです。「長く勤めるため」に予習をし、問題があることを発見した事実を隠さずに情報公開したところが出席者の好感を呼びました。

 

この「コーヒー」で私が感心したのは、教育長候補の質だけではありません。

出席した保護者や住民がよく勉強しているので、質問が非常に詳細で的確なのです。

「教育長以外にも多くのポジションが空席になり混乱が予想されますが、それについてどう思いますか?」という質問は、現状を把握していなければできないものです。

予算についての質問も多かったのですが、具体的な数字を知らないとできないものばかりでした。

この集まりの後で、出席者は配られたプリントに候補者の感想を書いて「選出委員」に提出します。

どの候補者の「コーヒー」にも同じ人たちが参加していたので彼らに感想を尋ねたところ、アッシュ氏とフライシュリ氏のふたりに人気が集中していました。

フライシュリ氏は若々しい情熱や暖かい人間性を感じさせる男性で、ひと目で好感を抱けます。笑顔をほとんど見せないアッシュ氏とは対照的です。

でも、全部のコーヒーに参加した人たちは、ひとりをのぞいて全員が「アッシュ氏のほうが適任者だと思う」と答えたのです。「暖かみがない人だけれど」と言いつつも。

教育長を実際に選んだ経験があるエルバーガー氏もアッシュ氏に好印象を抱いたひとりです。

「教育長というものは、欠陥のある人間であることが多いものです。けれども、教育長としてのリーダーシップを発揮して、学校のために働いてくれれば、個人の性格なんてことはどうでもいいのですよ」

意外に思うかもしれませんが、レキシントン町にはこういう冷静な分析をする保護者が多いのです。

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最終候補の「最終面接」は、多くの住民が視聴できるように、何百人も収容できる学校の講堂のステージの上で行われます。聴衆に「面接」の権利はありませんが、この公開面接の後で候補者に質問することはできます。

ここでも参加者した町民はプリントに感想を提出することでプロセスに直接「参加」できます。

最終的に決める「選出委員会」のメンバーがまさに「民主主義」です。

暫定教育長、教育委員のほかにも、保護者代表、住民代表、そして高校生の代表が含まれるのです。高校生が「教育長」の選出に参加するのはアメリカでも珍しいのですが、日本では想像もできないことです。

その他の町民はこの話し合いに直接参加できませんが、ここで話し合われた全記録が町民に公開されるので、話し合いは真剣です。選んだ理由を具体的に述べなければならないので、好き嫌いの感情で選ぶことはできません。

満場一致で選出されたのは、アッシュ氏でした。選んだ理由も「コーヒー」のときの出席者の意見と一致していたのがとても印象に残りました。

教育長公募から決定まで、なんと1年近い時間が経過していました。

透明なプロセスには時間がかかるものなのです。

 

こうして2005年に就任したアッシュ氏は2012年現在も現役です。1998年に辞めた教育長は6年という「長い」記録の保持者ですが、それを超えたことになります。

住民同士の争いの元になる予算面では独裁的ともいえる決断力を発揮し、これまで慢性的だった税率引き上げを避けています。むろん、それにより敵も沢山作り、教育委員による今年の評価では「恊働が足りない」という批判もされています。

教育委員によるこういった「評価」がちゃんと公表されるのもレキシントン町の「民主主義」なのです。

教育長は非常にパワフルなポジションなのですが、理由さえしっかりしたものであれば、住民(の代表である教育委員)がいつでも解雇することができます。1998年から2004年には実際にそれを行使してきたわけです。

選出時に彼を推した人の中にもアッシュ氏を批判する人がいますが、私は肝心なときに強い姿勢で「偏見と差別がない学校」の立場を守ったアッシュ氏のことを高く評価しています。批判ばかりされる立場の彼に感謝のメールを送ったところ、「I appreciate it.(ありがたく思います)」という暖かい返事が戻ってきました。

 

そのときの出来事については後の章で詳しく述べますが、レキシントン町の公立学校に「偏見と差別がない学校」という方針が存在するのは、教育長や校長ひとりの性格や行動力だけではないのです。

彼らを選ぶ町民の意志が反映しているのです。

でも、「これがアメリカなんだ!」と早とちりしてはなりません。

教育委員会の長を勤めたトム・ディアス氏は、「レキシントン町はアメリカでも特別な町なのです」と言うのです。

 

(つづく)

次回は、4章 志ある町民が志ある学校を作る

*注記

この記事は、主に1998年から2006年にかけて私がマサチューセッツ州レキシントン町の公立学校の関係者、保護者、生徒を取材して書いたものです(その後の取材による加筆あり)。公式記録に実名が出ているために隠す必要がない人と許可を得ている方人は実名です。場合によっては許可を得ている方でも仮名あるいはイニシャルの場合があります。

登場する方々の肩書きと年齢(学校の学年)は、取材当時のものです。

 

 

 

3 thoughts on “住民が手作りする公教育4

  1. 今朝も起きてすぐに読ませていただきました。すばらしいシステムと感動してます。続きが楽しみです。

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  2. アリゾナさん、
    ありがとうございます。
    いじめが話題になっている今、読んでいただきたいテーマなので、他の原稿を放ったらかしにして書いてます。
    でもちゃんと他の仕事もしなくちゃならないので「毎日更新」、どうなることやら…です(笑)。
    書く事は決まっているのですが、手直しするだけで時間がかかって…。でもお楽しみに。

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  3. 教育に従事する大人たちの熱意とか責任感の大きさなどがヒシヒシと伝わってきます。思うに、そういう真剣さと言うか誠実さというか、たった一つの核となるような資質を持ち合わせていれば、教育長のような立場の人であれ、校長や教師であれ、いくらでも周りがバックアップしてやっていけると思うんです。私は日本の学校で不祥事が起こり、校長らスタッフの紋切り型のコメントを聞くたびに、残念でなりません。教育関係の方々、ぜひ一緒に考えてください。

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