ボストン郊外にてイスラエル国防軍 (IDF)の若者と会う

以前に「ユダヤ人とは何か?」というテーマで書いたことがありますが、ユダヤ系アメリカ人の友人に「ユダヤ人のアイデンティティ」について訊ねたこともあります。その友人から、先日非常に興味深い集まりに招待されました。


ボストン姉妹都市のハイファから訪れたイスラエル国防軍 (IDF)の若者15人がユダヤ系米国人と交流するこの会は、ボストンのユダヤ人グループがイスラエルのMinistry of Public Diplomacy and Diaspora Affairs(世界に散らばっている離散しているユダヤ人=ディアスボラを取りまとめることを目的とする省)との恊働で行ったミッションの一部です。 私を招待してくれた友人はオーガナイザー兼司会、という重要な役割を果たしています。断っておきますが、彼女は非常にリベラルで、根本的に反戦主義、そして、異なる宗教の人びとの交流会も多くオーガナイズしています。

ステージ上に並んで座っているIDFの若者たちを見てまず驚いたのが、表層的な多様性です。これまで抱いていた「ユダヤ人」のイメージは、主に私が交友関係を持っているアシュケナージ(Ashkenazim)かセファルディム(Sephardim)のものだったからです。けれども、ステージに上がっている若者たちは、見るからに多様です。エチオピアから来た男性の肌はコーヒー色ですし、ウクライナからの移民の男性は典型的なロシア人のイメージです。そして、アラブ人と見分けがつかない人もいます。

最初に会場となったリフォーム派テンプルのラビ (Rabi)が「この町には、オーソドックス、コンサーバティブ、リフォームの3つのテンプルがあり、こうして交流も持っています。これは皆さんもご存知のように、ユダヤ人コミュニティとしては非常に稀なことです。ここから皆さんが学ぶことは大きいでしょう」とイスラエル国防軍の若者たちに挨拶しました。
私の友人は殆どリフォーム(最もリベラルでオープンな宗派)ですし、この町のことしか知りません。それが当然と思っていた私は、IDFの若者たちが驚いた顔をしたことに驚きました。
なるほど、こういうことも部外者には分かりません。

簡単な自己紹介に続いてQ&Aに移ったとたん、会は活発になってきました。ユダヤ人らしく、どんどん手があがり、その中にはつっこんだ質問もあります。

それらのQ&Aで学んだのは次のようなことでした。

—イスラエルでは、女性の場合2年、男性の場合3年の、兵役の義務がある。最近は徴兵拒否があるようだが、これを避ける者は他人から見下される。

—イスラエル国防軍では、米国の軍隊のようにゲイに対する差別はない。オープンである。

—いろんな宗派の人が軍にいるが、それも問題にならない。なかにはキリスト教など異教の者もいる。だが、以前には宗教的でなかったものでも、宗教のお祭りはふだんよりしっかり祝う。そのときに連帯意識を覚える。

—イスラエル以外の国籍のボランティア兵もいる。

国防軍の若者の答えで印象的だったのは、「軍がイスラエルという国を作り、国が軍を作る」というものです。米国のユダヤ人とIDFの若者の対話からは、「イスラエルは、全世界に散らばっているユダヤ人にとって宗教のよりどころ、スピリチュアルな祖国である」、「イスラエルという国、そしてユダヤ人そのものを守るためには、強い軍を維持して守らなければならない」、「ユダヤ人を守ることができるのは、ユダヤ人だけなのだ」、といった切実さをひしひしと感じました。

また、「イスラエルの軍は、国民そのものである。だから、エジプトやリビア、シリアのように国民を弾圧することなどはない。僕たちの国は彼らとは違う。それに誇りを感じる」という意見もありました。

ユダヤ人が集まると、必ずホロコーストの話題になります。この日も、ホロコーストで亡くなった親族の話、サバイバーの話が出てきました。最初にナチスの迫害に従順に耐えたために効果的な反抗のチャンスを失い、結果的に大量に殺害されたユダヤ人にとって、「二度と従順に殺されたりはしない」という決意は当然のことなのです。これは体験したユダヤ人でないと理解できない感覚だと思います。でも、Q&Aの後で、コンサーバティブのラビが、「私のテンプルに来る若者にもイスラエルで兵役に参加するようすすめている」と言ったのは、すでに知っていることとはいえ、少々ショックでした。

しかし、ユダヤ人だからといって誰もがイスラエルを支持しているわけではありません。パレスチナ人に対するイスラエルの対応に批判的なユダヤ人も多く存在します。私の町にはリベラルが多く、戦争反対のデモを先導していたのもユダヤ人でした。息子たちの兵役を逃れるためにイスラエルから越して来た友人家族もいます。自分はイスラエルを訪問するけれど、子供たちには(兵役に取られないように)訪問させないイスラエル国籍の保持者も知っています。そんな彼らが集まると必ず熱い討論が飛び交います。ユダヤ人の友人いわく「argue(言い争い)するのが私たちの文化」のようです。

このQ&Aで特に印象に残った質問は、「武器を持つということは、人を殺す可能性があるということだ。武器を使ったことはあるか?その前と後で何かが変わったか?」というものでした。けれども、彼らが若くまだ経験が浅いせいか、「人を傷つけたり、殺したりするような事態はなるべく避けようとしている」といった答えしか得られず、質問者はこれに納得はしなかったと思いました。けれどもさすがにお客さまに対して失礼と思ったのか、いつもの強い討論はありませんでした。

私がひかかったのは、「軍隊でモラルを学んだ。軍によってベターな人間になれた」という、ある兵士の言葉です。彼は高校卒業の頃まで人生について何も考えていなかったから、軍に入って人間的に成長し、みんなにもそれを薦めたいと言っていました。私は、「軍でしか学べないようなモラルって何なのだろう?また、そのモラルって何なのだろう?」と訊ねてみたかったのですが、なんせ200人近いユダヤ人の中で非ユダヤ人は私だけ。よそさまの家の中に入り込んでいる肩身の狭い感じですし、招待してくれた友人の立場もありますし、そういう「土足で踏み込む」ような質問ははばかれます。
ぐっとのみこみました。

ひとつ日本の方々にわかっていただきたいのは、自分とは異なる国の国民や民族の考え方を理解するためには、ある程度歴史的な背景を考慮するべきだということです。
一昨日オサマ・ビンラディンが米国特殊部隊に殺害された件に対して、日本からは「人を殺して喜ぶアメリカ人の感覚って…」「報復に報復をしてどうするのか?」といった反感が聞こえてきました。

私は、それには反感を覚えます(特記しておきたいのは、TVや新聞に映っていた「歓喜する米国人」はほんの一部の人でしかないということ。多くの米国人は非常に冷静に受け止めています)

オサマ・ビンラディンが指揮した2001年の同時テロ(9/11)は、米国人の心に深い心理的な傷を与えました。これは、ユダヤ人にとってのホロコーストであり、日本人にとっての原子爆弾なのです。これらの悲劇を「我が身」のこととして体験した者とそうでない者の間には、簡単に理解できない心理的な溝があるのです。また、そのために他の民族から見ると、「なんと身勝手なことを考えているのか!」と非難されるような行動も取るのです。
日本人に関してもそうです。原爆のせいで第二次大戦の「被害者」意識のほうが強くなってしまっていますが、中国や米国の歴史で日本は「加害者」です。それに目をつむってきた人は多いのではないでしょうか?感情をまじえない冷静な良書として、加藤 陽子さんの「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社)」をお薦めします。

他人の置かれた特殊な環境や心理が「分からない」ことを自覚することは大切だと思います。
「●●をやるなんて、理解できない」と簡単に他人を非難するのは、たいていリスクをとったり、決断をする必要のない立場にいる人です。

私はアフガニスタン戦争もイラク戦争も最初から反対で、署名を集めて政府に送りましたし、戦争に反対するハワード・ディーンを早くから応援し、政治資金も提供してきました。けれども、それは「人を殺すなんて、ひどい」という感情論からではありません。

もちろん、戦争反対の最大の理由は一般市民の命が失われることです。けれども、もうひとつ大きな理由は、いったん始まったら泥沼化し、外交面でも経済面でも米国そのものにダメージがあると分かっていたからです。

私は感情論で政治を語るのは苦手ですし、語る人も苦手です。なぜかというと、重要なことになればなるほど「感情」は判断を鈍らせるからです。「戦争反対」を唱える人は感情を前面に押し出しがちですが、政治的決断というものは、もっと醒めた目で下されるものです。
国のリーダーが国民に「戦争」という観念を売るとき使うのが、愛国心、誇り、恐怖、怒り、といった「感情」です。
また、簡単で分かりやすい、(そして感情に訴えかける)言葉には気をつけるべきです。米国のティーパーティのリーダーが人気があるのは、わかりやすく、生な感情に訴えかけるのがうまいからです。
日本人は「計算高さ」
まるで悪いことのように考えていますが、こういうことこそ、「計算」は必要なのです。 そして、計算をするときには「国民感情」という「感情」を配慮しなければならない。「感情」は計算に取り入れるものであって、判断するときに使うものではないのです。

proとconを徹底的に検討し、他国との関係を良好に保ちつつ、自国の地位を確保し、 自国の国民に最も利をもたらし、争いでは被害を最も少なく保つ方法を考え出すのが優れたリーダーであり、そんなリーダーを得るためには、国民が「心」ではなく、「頭」でしっかりと選ぶ(あるいは育てる)べきなのです。そうしないと、口ばかりうまい政治家に何度も何度も騙されることになります。
その場合、ダメなのは政治家ではなく、国民なのです。

権利もあるが義務もある。それが民主主義です。
リーダーに最善策を考えて実行してもらうことを期待するのは、アース・トレインのネイサン・グレイが言うところの「善意の(けれど結局は)独裁政権」なのです。

5 thoughts on “ボストン郊外にてイスラエル国防軍 (IDF)の若者と会う

  1. こんにちは。これは読み応えのあるポストです!
    米国では、国防も、戦争も、そこに至らせないようにするための冷戦(技術開発やIntelligenceなど)も、Pragmaticな政策の選択肢に過ぎません。「向こう(敵国やテロリスト)がこう出てきたらこう対応する」というようなことは、常に軍の組織の内外で検討されてて、そのための研究開発やテクノロジーの実用化もされてて、選択肢は、多様にあります。多様な選択肢を用意しておく、ということも政策のひとつですし、必要となったときにその選択肢の中から適切なものを選ぶ、というのも政策のひとつなのです。もちろん、Idealisticな世界では、人間を殺すことになってしまうようなことが政策の選択肢には入ってこないでしょう。でも、Pragmaticな世界には、まだ、残念ながら、いまのところはそれが必要なようです。これは、「理想的にはいますぐ原発全廃して太陽熱、地熱、風力で全部まかないたいけど、現実的には、まだ技術開発の面からも、出力の面からも、いまのところは原発を全部止めちゃうわけにはいかない」というのと似てると思います。戦争を今すぐ選択肢から無くしたら(米国が軍を今廃業にしちゃったら)、世の中がめちゃくちゃになっちゃいます。
    私はPacifistで、結構戦争関係では感情的に反対してしまうことも多いのです。でも、特に、最近、茶会党の人たちの政策にIdealisticなレトリックを絡めてくる手法にげんなりしていることもあって、政治に関しては、リベラルである以前にPragmatistでありたい、と思います。
    ちなみに余談ですが、私の夫の姉の夫はユダヤ系米国人ですが、ピッツバーグで高校卒業後、イスラエル軍に志願して数年入隊しました。彼も、彼の両親も、政治的にはリベラルですが(例えばイラク戦争には反対)、「ユダヤ人としての社会勉強」のために志願した、と説明しています。彼はもう55歳ですから、何十年も昔の話ですが。

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  2. Yokoさん、
    とても素晴らしいコメントをありがとうございます。
    軍事産業には光も影もありますよね。
    災害時の対応策の素晴らしさも、米国軍ならではの研究の結果です。
    アポロを月に飛ばしたのも「軍事産業」の一部ですし、その時に開発された技術の数々が医療など広域に活かされています。(わが夫はアポロコレクターなので、相当そういうことに詳しいのです。)
    私も基本的には反戦主義者で、イラク戦争の前には夫の家族と口論になりかけてしまい、長い手紙を出したこともあります。でも、Idealismでは世の中成り立たないことも分かっています。というかIdealismでは平和は守れないと思っています。
    Yokoさんのおっしゃるように、理想的な世界に近づくためにはPragmaicになる必要があります。だから「軍=悪」「ビンラディン殺害=殺人は許せない」という、イノセントというよりもナイーブな意見ばかり聞くとやるせない気分になるのです。
    ご親戚のイスラエル軍体験、とても貴重な体験談です。というのは、私の知人の息子も従軍するかもしれないからです。それも「イスラエル人としての社会勉強」のためなのだと思いました。

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  3. とても興味深いレポート、ありがとうございました。
    わたしは、偏見に満ちたステレオタイプを持ち出して「○○人は」とまとめる人がとても苦手です。わたし自身の中に、他国のひとに対するステレオタイプがないかといえば、そんなことは決してありません。ステレオタイプはその人個人個人の体験からくる一種のオブザベーションでもありますから、誰もが多かれ少なかれ抱いているもの。
    ただ、私が苦手とするのは、ある場面に遭遇し、それがたまたま自分が以前から抱いていた(ネガティブな)ステレオタイプと合致したというだけで、我が意を得たりとばかりそれを批判の的にあげつらい、稚拙な言論を繰り返す人たちです。
    狭窄な視野で相手をステレオタイプに押し込めながら、それと同時に反戦を叫ぶのは、Contradictionだと私には思えるのです。ステレオタイプに基づいたネガティブな感情を膨らませてゆく過程こそが、憎しみを増幅させ、戦争につながる道を作る、と思うからです。相手の多様性を認める態度を失ったとき、どんな反戦の美辞も虚言となります。

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  4. まったく同感です!
    以前どっかに書いたのですが、自分の中にある偏見やステレオタイプを捨てることはできません。それができると断言する人や、押し付ける人は信用できないとも思っています。
    「心の中では誰にも偏見がある」ことを承知のうえで、それを言動に移さないことが人間として最低限のdecencyであり、diplomacy なのですよね。
    「狭窄な視野で相手をステレオタイプに押し込めながら、それと同時に反戦を叫ぶのは、Contradiction」というご意見は、今回のビンラディンの件にぴったりだと思います。
    まず一方的に批判する日本人たちは、9.11がどれほど米国民に深いトラウマをもたらしたかを想像しようともしていない。これに私は非常に不満を覚えています。
    どうして「原爆を落とされた国」への配慮を諸外国の国民に求めるのに、他国の国民の心理へは無頓着でいられるのか、それが不思議でなりません。
    ビンラディンだけを殺害して隣人などに被害が及ばないように、「これはテロリストに対する措置であり、イスラム教徒に対する戦争ではない」ということを示すために、オバマ大統領が最もリスクの高い方法を選んだことなどをまったく考慮せずに、「オバマは殺人者」などと簡単に批判する人びとこそ、実際に日本がテロリストに攻撃されたら、真っ先にその人の祖国全体を「悪」と決めつけるのではないかと思います。その世論が高まれば戦争に突入しかねません。
    日本語のツイッターを読んでいて、そんな残念な感想を抱きました。

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