じぶんにあんまり興味がない…ということ。

大学の夏休みのほとんどをニューヨーク市で過ごした娘が、充実したインターンシップを終えて、夏休みの残りちょっとを過ごすために家に戻ってきた。

最初の夜は、私と夫のガラパゴス旅行の報告会と娘が夏の間に書いた医学論文(ケーススタディ)のパワーポイントプレゼンテーションであった。このケーススタディがことのほか面白くて、20分の筈だったのに1時間以上話し込んでしまっていつものように4時起床の今朝は寝不足。

昼食のときにまたあれこれ話し合っていたのだけれど、そのとき質問されて若い頃の自分のことを思い出してみた。


若い頃には、自分の人生に満足していたわけでもないし、鬱っぽかったことが何度もある。

でも、今は「幸せだ」と言える。「私は恵まれている」と心から感謝できる。

それにはいろいろな理由があり、それを書きはじめると、1冊の本になってしまう。

だから、ここでは全部は書かない。いつかまとめて書こうと思う。

でも、さっきツイッターのTLを少し眺めていて、若者の苦悩の言葉を読み、これまで気づかなかった新しいことを発見した。

私も若い頃には同じように苦しんだことがあったと思う。そして、苦しかった頃には、今日読んだ苦悩の言葉のように自分の内部にどんどん入り込んでゆく傾向があった。

落ち込んで、暗くなって、絶望している自分の心情を掘り起こし、取り出し、いろんな形で語り尽くした。そういうときの関心のすべては、自分と外側の世界との関係だった。

つまり、当時の私は自分自身にすごく興味を抱いていたのだ。

今日、それに気づいて考えてみたのだが、いまは正直言って、自分にあんまり関心が持てないのである。

良くも悪くも、だいたい自分がどういう奴か分かってきた。

変えられるところは変える努力はしているけれど、変えようとしても変わらない嫌なところは見ないという悪知恵もついた。ショートパンツで太い脚をさらしても平気になったし、それを写真で見ても「ううう」と赤面するが、「どうせ誰も気にしていない」と5分後には忘れることができるのである。取引先の方にストレートなことを言って「ちょっとアメリカ的過ぎたかな。嫌な奴だと思われているかも」としばらく気にしても、以前のようにいつまでも気にして寝られないことはなくなった。

これだけ生きてきたのだから、必ず誰かに「嫌な奴」、「配慮がない」、「思い上がっている」と思われているだろう。好きで応援してくれている人も沢山いるだろうけれど、誰がどう私のことを思っているのかをいちいち探り出したいとは思わない。「見えるところだけ(見たいところだけ)見ていればいいじゃん。暇ないし」と自分でも呆れるほどあっさりしたものである。

いま私が興味を抱けるのは私自身ではなくて、自分がやりたいことだけなのだ。

自分はたいした奴ではないが、自分が面白いと思うことや人物は「たいしたもの」である。そっちのほうが、私なんかよりずっと面白い。50過ぎて、これから美しくも賢くもならないおばさん(私)のことなんかを考えている暇はない。

こういった「おばさんの開き直り」は、実は生き延びるコツなのではないかと思う。

若い人は、自分に関心を抱くことも成長のために必要なことなのでおおいにけっこうだけれど、苦しくなったら「おばさんの開き直り」を試してみてほしい。けっこう効果はあると思う。

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