ネットが奪った、『失敗から学ぶ』貴重な機会

ソーシャルメディアやブログのおかげで、人々は自分が直接関わる小さな社会を超えて、いろいろな人と繋がることができるようになった。

私自身がツイッターやフェイスブックの繋がりから数多くの恩恵を受けているので、インターネットの普及は歓迎している。MacBookやiPhoneがなかった時代のことなんか、もう思い出せないほど頼りきってもいる。

なんでもそうだが、新しい便利なものには困ったこともオマケとしてついてくる。「それはいりません」と断りたいところだが、セットなので仕方がない。

インターネットの困ったオマケは、姿が見えない無数の相手からの中傷や誹謗だ。ある本のレビューにも書いたが、「他人を血祭りにあげたい」という心理が、ネットによって拡大している感じがある。

拙著『ゆるく、自由に、そして有意義に──ストレスフリー•ツイッター術』は、まだツイッターがここまで広まっていないときに書いたので、状況は当時よりもずっとタフになっている。

誰かの発言が舌足らずだったり、誤解されやすい表現だったりすると、鬼の首を取ったかのように「そんなことも知らないのか!」と言ったり、「ばかじゃないの?」と嘲笑ったり、「リプライせずに無視している」と執拗につきまとったりする人がいる。それが、以前よりずっと増えた感じなのだ。

ソーシャルメディア使用者の絶対数が増えているからだけではなく、自分の行為にまったく疑問を持たずに肯定してしまう人が増えているような気がしてならない。

どうしてそうなってしまったのだろう?

もしかすると、ふだん会社、学校、家庭で、「誰も自分の能力を誰も認めてくれない」と不満を抱く人の「承認欲求」が高まっているのかもしれない。

きっかけが何であれ、それらの人は「他人を傷つけるパワー」の快感が癖になっている、というのが私の推察だ。

ターゲットにした人を罵り、嘲り、心を傷つけたという実感を得たとき、彼らは快感と恍惚感に浸るのだろう。その快感を得たくて繰り返していくうちに、依存症っぽくなってしまうのかもしれない。

学校のいじめと同様に残酷で醜い行為だという自覚がないのは、客観的に自分の行為を評価したことがないからだろう。

たとえば、私の年代の男性が、若者の(ちょっと青い)政治的発言や行為を「意識高い系」とか嘲笑にするのを目にすることがある。「政治的組織にうまく利用されている」と愚かさを笑っていることもある。

しかし、私の年代では、エリート大学に通う学生の多くが(ラジカルでバイオレントな)学生運動に染まっていた。何も知らないのにわかったような口をきいたり、とんでもない人に恋をしたり、差別的な発言をしたり、後で振り返って赤面するような失態をおかすのが、若者の特権でもあった。

何も知らない生意気な若者だった私たちは、周囲の優しい人々の助言や自分自身の体験から自分の行為が間違っていたと学び、成長し、今に至っているわけだ。(なかには、内ゲバなんかをやっていた人が、のちに大企業に就職したりもしている)。なのに、それを忘れている人がどれほど多いことか!

私の年代の人がこっそりやってきた失敗を、今の時代の若者は目に見えない無数の人の前でやらねばならない。そして、この場所ではたいしたことではない失敗すら許してもらえない。

なんと息苦しいことか。

失敗から立ち上がる苦しい体験を経て貴重なことを学ぶかわりに、若者たちは先輩の私たち世代の行動を見て、「なるほど。あのようにしてネットで他人を叩いて快感を得てもいいのだな」と簡単な方法を学ぶ。

若者よりも、年寄りの私たちのほうが先に行動を正すべきなのは明らかだ。

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