ゆるく、自由に、そして有意義に「やりたい人がやるPTA」その4

本ブログで連載した『住民が手作りする公教育』の番外編として、PTAについて非常に興味深い提案をされている作家の川端裕人さん にお話を伺いしています。

今回初めての方は、その1から続けてお読みください。

 

談その4「やりたい奴にやらせたら、ロクでもないことになりやすい?」

 

Yukari川端さんも私も、実際に関わった体験から「PTAは、やりたい人がやるほうがいい」という結論に達したわけですが、このような反論もいただきました。

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これを読まれて、きっと川端さんも何か思われたことでしょうね…



Kawabataぼく、この方がどういう意味で、こういうツイートをしたのかよく分かりませんが、実は、「それはそうかも!」と共感するところもあるんです。

Yukariえ?そうなんですか!

アメリカでしかPTAを体験していない私には想像できないので、その部分をお聞きしたいです。

Kawabataつまり、やりたい人がやればいい、といいつつ、それだけでは済まない部分が、日本のPTAにはあって、やりたい人が暴走するとひどいことになるんです。

 


Yukariその「やりたい人」のタイプに問題がありそうですね。

 

Kawabataまさにそうですね。たとえば、「やりたい人」が、最初から政治的な意図や、宗教的な意図を持っている場合です。

世田谷区で、一時PTAが休止していた小学校があるんですが、そこは、市民活動系の会員と、宗教系の会員が覇権争いをしてしまったために、校長がいったん休止してくださいと頼んだということです。そのいきさつを知る人から聞きました。

YukariなぜPTAで覇権争いになるのでしょうか?

 

Kawabataある種の宗教では、地元貢献が教義上のポイントになる場合もあって、PTA活動は推奨されている。同時に特定政党との繋がりも強い。市民活動系の人たちとは、結局、たいてい水と油になっちゃう。

さらにいうと、将来、議員になりたい人など、とりあえずPTAで活躍を、と考えるケースは多いようなんです。これは逆に、PTAの活動を通じて、公共の仕事に目覚める人もいるのかもしれないけれど。

実際、区議会や市議会の議員になっている人は、PTA会長経験者が多いですよ。
あと、地域社会でのステップアップという意味で、青少年委員とか、民生委員とか、場合によっては教育委員まで。

Yukariなるほど。レキシントン町でも、PTA会長から地域の教育委員とかになる人はけっこういますね。でも、それはブログ連載『住民が手作りする公教育』で語ったように、あくまでボランティアの社会貢献としてです。

Kawabataまあ、青少年委員とか民生委員とか、保護司とか、ほとんどボランティアの仕事なんで、PTAがそういう人材を吸い上げるのに役立っているとも言えるんですけどね。ただ、どうしても、現状のPTAに適応できた人たちが、そこに残っていきやすいので。


まあ、これは、日本のPTAの位置づけのほんの一端ですね。
PTAはただの任意の団体なのに、自治体、行政は、とても重く見ています。

学校も行政も、PTAを保護者代表、保護者の窓口として「あてにしている」んです。そして、会長とか、PTA連合の役員ですとかとのパイプを大事にする。

考えて見れば、PTAって便利なんですよ。本当は任意の団体なのに、入退会が自由だと知る前に、自動的に会員になることがほとんどです。みんな自発的に入っている建前でほぼ100%の加入割合。これは学校や行政からみると、保護者代表として理想的ですよね。だって、ほとんど自覚的ではない会員で、特に、PTAに入ると自動的に連合組織、いわゆるPTA連合の会員になるなんて、知っている人の方が少ないですから。そんなわけで、会長や、PTA連合がなにかいえばそれが保護者に意見になってしまう。

PTAの中枢に入り込んだ人は、身丈にあわない「力」を持ってしまっているとも言えるんです。だから、悪用されかねない面がある。

Yukari「身丈にあわない力」というのは、分かるような気がします。

私がレキシントン町で出会ったPTAの会長は、企業の重役、大学教授、企業コンサルタント、投資銀行家、といったリアルな社会でもまれてきただけでなく、社会意識が強い人たちでした。女性が多かったのですが、PTAには男性も多く関わっていますし、教育委員になると男女半々ですね。知識が豊富でリーダーシップがないと誰もついてゆきませんから、選ばれません。選ぶ方も候補者の知識、経験、人柄をちゃんとチェックしている感じです。

Kawabata2010年に、東京都で「非実在青少年保護条例案(『東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案』)と呼ばれる変な青少年健全育成条例の改正があったんですが、やりたい人=PTA勝ち組に、まかせておくと、とんでもないことになる、と実感しました。

この条例は検索すればいくらだって出てくるので、読者のみなさんがどう思うかは考えてみてほしいんですが、それは、ここでは本質的な話じゃありません。賛否が分かれる問題であって、まさに賛否が分かれる問題だということが、重要なポイントです。

 

Yukariそうですね。川端さんがここで問題にしているのは、条例案の賛否ではなく、それが条例化されるプロセスでのPTAの暴走なんですね。

Kawabataええ、この条例を通すときに、東京都の小学校PTA連合会は、保護者の総意として条例案を支持しているみたいに、暴走しちゃったんです。個々の保護者の意志を吸い上げたわけでもなく、内部から問題提起があったわけですらなく、ただ、連合会の会長が、その条例案をつくるワーキンググループの中にいて、熱心に推したことで、東京都の小学生の保護者は条例案に賛成していることになりました。

これ、現状のPTAに適応できる人たちに好きにやらせていると、政治的に勝手なことができる、悪い例だと思うんです。

Yukariこの部分、日本の政治全体について私が非常に不安に思う部分です。
レキシントン町でPTAや町の委員会に加わって知ったのが、いかに自分が社会構造や法について無知でナイーブであったか、ということなんです。取材した高校生のほうが私より知識豊富で恥じ入りました。

日本では、知らなくても生きてゆけますし、そのほうがかえって自由に偉そうな意見が言えますからね。
自分の無知を自覚する機会がなければ、私もそうやって生きていたと思います。自覚する前の私が思いつきで暴走していたら、大変なことになっていたでしょうね(笑)。

Kawabataちょっと話が大きくなりすぎちゃいましたね。

ぼくと渡辺さんが議論してきた「好きな人がやる」というのは、こういうことじゃないですよね。
もっと、直接的に子どもに向き合って、「こうしたい、ああしたい」を目の届く範囲で実現していく

Yukariそうなんです!
レキシントンの公立学校でも、大学教授や企業の重役がPTAのボランティアをしていても、親の自己実現のためではありません。子どものため、なんです。
私が今でも楽しく記憶しているのが、小学校4年生と5年生のMath
Olympiad
(算数オリンピック)の指導ボランティアです。

私の学年のリーダーはマサチューセッツ工科大学で数学を学んだ後に心理学者になったお父さんで、「やってくれないか」と頼まれたときに「私にはできませんよ。英語で数学を学んでないから」といったんは断ったんです。他のメンバー2人はインドのMITといわれるIndian
Institute of Technology出身のエンジニアで、私とは知識レベルが違い過ぎます。
けれども「解き方が分からなかったら、指導前に教えてあげるから。人数が足りないから、頼むよ」と再度懇願されて加わったのです。

数学者で心理学者のリーダーは、始める前に私たち3人のボランティアにこう指導しました。
「この算数オリンピックは、子どもたちに『数学は楽しいものだ』と感じてもらうためにあります。ですから、子ども同士を比較しないこと。自分で解く喜びを得てもらうために、ヒントは与えてもよいけれども、答えや解き方を与えないこと。自分の子どもを教えると摩擦が生じるので、わが子がいるテーブルは他のボランティアに任せること」

私たち4人は自分の子どもたちを比較しなかったので最後まで仲良くやっていましたし、子どもたちと触れ合う楽しみも分かち合うことができました。
私が想定している「やりたい人がやる」PTAとは、こういうイメージなんです。

Kawabataうんうん、分かる!

自分が、子どもたちの学びや育ちに、直接的に貢献したり、それを目の前でみられることって、すごく、自分自身に還ってくる力にもなる
もちろん、こういうレベルのことでも、勢いでやってしまってはよくないこともあるし、むしろ「それはダメ!」ってブレーキをかけなければならないこともある。
たとえば、ホメオパシーに傾倒している人が、自治体の助成金を使う枠で勉強会を企画したりするのを見ると、なんて言えばいいのか困ります。
さっきの算数オリンピックは、インストラクションが素晴らしかったけど、別のやり方をすると、算数嫌いを増やしてしまうことだってありうるし。

Yukariそうですね。私自身にも深く反省する体験があります。

 

Kawabataあはは、それは渡辺さんの体験の鍵になっている部分でもあるわけですね。のちほどこってり、聞かせてもらいましょう。
まあ、ぼくが知っているPTAの場合、既存のルートに乗っかればいくらでも暴走できる余地があるのに、それを変えようとするとえらく難しいというのがしんどいところです。

何をするにも、月に一度、あるいは二ヶ月に一度の運営委員会で了承を得ないとダメとか。だから、ぼくたちが議論してきたレベルでの「好きな人がやる」といってもなかなかできなくて、むしろ、こういうPTAに適応できて、組織から弾かれずに階段を上った人は、後で好きに暴走できちゃうような仕組みになってる。

Yukariお聞きしていると、「やりたい人がやる」ことではなく、そういう困った暴走だけを許すような日本のPTAの構造に問題があるような気がしてきます。

Kawabataでも、さっきの「やりたい奴にやらせたら、ロクでもないことになりやすい」という人の発言、実は別のことを言っているのかもしれません。
たとえば、ぼくみたいなやつのこと(笑)。

Yukari川端さんのような「やりたい人」は、レキシントン町であれば歓迎されるのですが、どうして日本のPTAでは「ロクでもないこと」と見なされるのでしょうか?
アメリカで暮らしていると、そういう環境が想像しにくいのですが…。

Kawabataもう7年くらい前のことですけど、PTAをボランティア化したくて、本部役員(副会長)に立候補したんですね。すると、当時の副会長らと役員選考委員長に囲まれて、2時間から2時間半かけて、「あなたは、副会長をやるべきではない」と説得されたんです。

やりたい奴にやらせたら、ロクでもないことになる、と思われたんだと思います。

「地域と合わない」とか「まだ時期が早すぎる」とか、あくまで心配してくれているわけですが、それで2時間以上同じこと言われ続けたのには閉口しました。でも、ぼくは自分にとっての時期は今しかないので(たまたま2人の子が同時に小学校に在籍する時期だったんです)、ということで、立候補を取り下げなかったんですけど、やりたい人にやらせるることへの抵抗感にすごくストレスを感じて、眠っている時の歯ぎしりで、前歯折りました(笑)。

 

Yukariお聞きしているだけで、歯が痛くなってきました(笑)

 

Kawabataでもね、このときの説得は結果的に当たっていたんです。

ぼくは、機会を見ては、「PTAのボランティア化」のプレゼンをしました。すると、隠然と力を持つ元役員や地域の方、校長ともぶつかりました。これを暴走と思った人もいると思います。いや、確実にいました。

自分自身が精神的に大いに削られた実感があるけれど、人のことも削ってしまったと思っています。ぼくを止めたい人はまだしも、ぼくを守ってくれようとする人までバタバタ傷ついていくんです。

なんか、しんどくなって……。

 

Yukariなんだか切ないです。

 

 

Kawabataぼくみたいな者の「暴走」は、止められるんですよね。ものの見事に。
でも、今のPTAに適応できて、「やりたい人」が、どんどん階段を上っていくと、止められない暴走が始まることがある、それって、日本のPTAのすごく危ないあり方なんです。

 

Yukariそれは非常に危ないですね。
PTAは子どものためにあるのに、その視点がすっかり抜け落ちて、親の「自己実現の場」になってしまっている気がします。

Kawabataそうなんですよ。

その変がねじれてるんです。「子どものために」と言いながら、実は保護者と教員の学びあいの場としてPTAって設立されていることも、影響があるかもしれないですね。第二次世界大戦の終戦後に、「日本の教育を民主化するためにアメリカのPTAを導入して、まず保護者と教員に民主教育について学ばせよう」とGHQからの提案があったとこから始まってますから。行政での位置づけも、社会教育関係団体で、つまり、生涯教育、生涯学習団体。この場合「教育」って、子どもの学校教育じゃなくて、親が学ぶという意味なんです。ぼくは、よく、PTAはみんな思うような強制的なものじゃなくて、ただの生涯学習団体だみたいなことを言うんですけど、その時に感じるジレンマですね。

いずれにしても、行政側の人と話す機会があると、「PTAは保護者代表じゃないから、今みたいにあてにするのはやめてほしい」とよくお願いしています。本当は自分の学校レベル、自分の子どもたちのレベルでの活動をすれば充実感があると思うのに、連合組織やら、自治体との関連でがんじがらめになってどんどん身動きがとれなくなっているわけですから。それに、さっき言ったみたいに、「勝ち組」の中に、本当に人の意見を聞かず暴走する人も出てきます。

Yukari組織のサイズに問題があるのかもしれませんね。
アメリカでも、レキシントン町のようにリベラルな所もあれば、いわゆる「バイブルベルト」と呼ばれるキリスト教プロテスタントが強い中西部や南部では、保護者の考え方も異なります。
それら全員が一致するようなやり方しかできないとすると、組織のしきたりをうまく操作できるエゴの強い人しか生き残れなくなり、子どもの顔が見えるような活動はできなくなってしまうでしょうね。

「失敗してもいいよ。できる範囲で」と言えるような雰囲気で、子どもの顔が見えるようなPTA活動ができるようになるためには、学校単位で、小さく活動するのが最適ですよね。

もうひとつ気づいたことです。
私は日本で病院と会社勤めを体験した後でアメリカに来たのですが、日本には「部下を信じて任せるマネジメントスタイル」が苦手な人が多いような気がします。
アメリカ人の夫は、企業で管理職をしていたときも、父親としても、一環して「いちいち細かく指示をするな。コントロールするな。やり方を自分で考えさせ、失敗を許し、そこから学ばせろ」という姿勢です。
でも、日本で私が受けた教育はその逆です。「失敗するくらいなら、最初から手を出すな」と言われましたし、自分で考えた方法でやると叱られました。
そういう環境で育つと自分の慣れているやり方が「正解」だと思うようになりますし、ほかにベターなやり方があるとは信じられなくなるんですよね。また、ベターなやり方を見せつけられると、自分の能力や存在を否定されたような気がして許せなくなります。

川端さんが本部役員に立候補されたときに反対にあったのは、そういう発想の人がマジョリティだったからではないでしょうか。

私がそう思うようになった体験について、ちょっとお話ししたいと思います。

 
Kawabataぼく、この小学校から、そして世田谷からPTAを変えようって、真剣に言ってましたし、その時のに描いていたPTAを変えていくプログラムは、それなりに評価されていると思います。ただし、自分のPTAとは遠く離れたところで。
 だから、捨てたもんじゃないと思ってますが、まだまだ、力不足。
 日本のディープな背景情報を分かっていただいたら、今度は渡辺さんの体験をききたいですね。

(つづく)

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